「憎悪しないで批判する」ことは可能か?
というわけで、昨夜は限定キャスだったのです。
(※録画視聴パスは、6月1日のエントリより取得できます。)
わりと雑多な話をしてしまった気がしますが、メインの内容は本日19時頃より催行される沼田牧師との対談に関する事前説明、というか、テーマにまつわる問題の検討ですね。なぜかマッチングアプリとかの話もけっこうしてましたが(笑)
私のほうの問題意識は、基本的に昨日のエントリ内で述べたとおりなのですが、沼田先生のほうの基本的なお考えも、昨夜のツイートを拝見するかぎり、私のそれと大きく離れたものではないように思われます。
ミクロのレベルで眼前の個人の苦しみに真摯に対応することは、その背景にあるマクロの構造を洞察しようとする試みとも十分に両立可能ですし、またその逆も然りであると、私は考えています。
そして、そのようにミクロの個人に感じられている主観的な苦しみを無視するわけでは決してないが、しかしそれだけを唯一の「現実」として固定的に捉えることなく、同時にそこから可能なかぎりの距離をとりつつマクロの構造も洞察するということは、他人に対してだけそうすべき態度では当然なく、むしろ自分自身の苦しみに対してこそ、まず(できれば)試みてみるべきことなのではないかとも思っています。
宗教的な世界観というのは、「距離などとれるわけがないと思えるほど、自身にとって生々しい『現実』そのものの痛みから、それでも距離を一時的にでも確保しようと試みる」という、この困難な課題に対する時にこそ、最もその「効果」を発揮するのではないかと私は感じていますので、そのあたりまで今夜の対談で踏み込めれば素敵だなあと、いまは考えているところです。
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(※このあとに文章はありません。)
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