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誰が「表記ゆれ」を気にしているのか
40年も作家をやっていると「表記の統一」がどんどん厳格になっているようで気が滅入ってくる。書く側からすると「ダメ」と「だめ」と「駄目」は全部ニュアンスが違うから、ページで書き分けるのは当たり前なのに、全てを同じにすることが当然のように校正者は思っている。昭和の文豪は不統一が多いのに
— 鴻上尚史 (@KOKAMIShoji) February 19, 2021
こちらのツイートをたまたま見かけて、いわゆる「表記ゆれ」問題について改めて考えてしまった。およそ書籍やマスメディアの記事などを通じて、広く公に読まれることを前提とした文章を日常的に書いてきた人で、このことについて悩んだ経験の全くない人というのは、ほとんどいないのではないか。私も様々な媒体で文章を公開する経験をそれなりの期間は続けてきたけれど、それでも「表記ゆれ」についてはいまだに数回に一回くらいの頻度で気になって、そのたびにしばらく考え込んでしまう。もっとも、私の場合は版元さんや校閲者さん等に指摘されて迷うというよりは、自分の中で表記のゆれが魚の小骨のように「引っかかって」気持ち悪くなり、それを解消するために時間をとって理屈をつけたくなってしまう、ということのほうが多いのだが。
たとえば、私がよく引っかかりがちなところとして、「いう」と「言う」の使い分けがある。こちらのページには「言葉で表す、述べる、発言する」といった「本来の意味で独立的に用いられる場合」には「言う」を使うとしてあるし、実際に多くの人は(使い分けをする場合には)そのような基準に拠っているだろう。読者の立場からしても、この基準に従って「言う」と「いう」を使い分けた文章には、違和感を懐くことが比較的少ないには違いない。しかしながら、言葉をできれば厳密に使いたいと考えるタイプの一部の書き手にとっては、この両者の境界は時に曖昧で、ゆえに引っかかりを覚えてしまうこともしばしばなのである。
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