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別にこだわったっていいんですが

 昨夜、こういうツイートをしたのだけれど。

 これらのツイートに対して、「それは姿勢に意味を持たせすぎではないか。私は意味を求めてあれこれ思い悩まないという意味で、意味はないと言い続けたい。意味を考えたほうが楽な人はそうすればよいが、私は損得を抜きして、そうした戦略といったものは放棄する」という趣旨のことを言われていた方がいたのだけど、それを目にして申し訳ないけれども笑ってしまった。私はまさに、そのような「姿勢」のことを、「意味などないのだという意味に逆張り的な強度を持たせることで乗り切ろうとする戦略」と述べていたのだからである。

 ご本人が自ら「意味を求めてあれこれ思い悩まないという意味で、意味はないと言い続ける」と、ご自身の「姿勢」に意味付けをされているのだし、それはまさに一つの「戦略」に他ならないと思うが、とはいえ、そのように私のツイートをまさに「燃料」として、逆張り的にご自身の生の態度を補強できる「強度」を調達することができたのなら、少しは私の言説もお役に立てたというもので、それは素直に嬉しいと思っている。

 ただ、このように言いはしたものの、私は「意味にこだわらずに生きる」ということが、人間には不可能だと考えているわけではない。私が言っているのは実にシンプルなことで、「『無意味なのだ』と己や他者に語り続ける『説得』の行為を続けることで、自身の生に『強度』を調達し続けなければならない状態にとどまっているのなら、それはまだ完全に『意味へのこだわり』の引力圏の振る舞いですよね」ということである。この点に関しては、過去に『仏教思想のゼロポイント』でも、「現代的ニヒリズム」との連関にふれながら論じたことがある。

 臨済宗の禅僧である細川晋輔師は、著書の『人生に信念はいらない』において、「人生に信念はいらないが、坐禅によって各々の人が『心の柱』を確立することはできる。そうして心の柱を確立し、自由自在にはたらくことができるようになるのが禅でいうところの『無心』に他ならないが、その無心になるにはどうすればよいかというと、これは自分の目の前のことに成りきるしかない」という趣旨のことを言われている。

 この「信念」と「心の柱」の関係については、既に別の記事で私見を述べたから、それを再び繰り返すことはしないが、本記事の文脈に即した形で別様に語るなら、ここで言われる「信念」とは、たとえば「無意味なのだ」と言明して己や他者を「説得」し続ける必要のあるような、言語化され固定化された、一つの「物語」あるいは「ドグマ」のことである。

 そうした言語化され固定化された「物語」や「ドグマ」を離れたものとして、おそらく「心の柱」や「無心」は示されているのだろうと思われるが、これは坐禅の文脈で語られ、また細川師の九年間の修行の果ての風光として語られていることからもわかるように、それ自体が「宗教的」な生のモードであり、また実現するには一定の修練も必要となることである。

 そうした事情にナイーヴであるせいで、単に「無意味だ」と自身や他者に宣言してみせるという、実際には意味の世界に逃げ戻っているに過ぎない行いを、あたかも「意味へのこだわりから離れた」態度であるかのように語ってしまう方々に対しては、やはり私としては違和感が拭えない。そんなふうに、昔から考えていたことを、再び思い出して確認することになったバンコクの夜なのであった。


※以下の有料エリアには、過去のツイキャス放送録画(私が単独で話したもの)の視聴パスを、投銭いただいた方への「おまけ」として記載しています。今月の記事で視聴パスを出す過去放送は、以下の四本です。

 2018年5月29日
 2018年6月17日
 2018年6月23日
 2018年6月27日

 九月分の記事の「おまけ」は、全て同じく上の四本の放送録画のパスなので、既にご購入いただいた方はご注意ください。

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