なぜ瞑想をするのか――「無心」が開く生のモードについて
ちょうど1ヶ月前の8月21日に私はこんなツイートをしまして、以降、それをツイッターのトップに固定してあります。
今回のエントリは、noteにて上のツイートの内容について、説明を行おうとするものです。わりと丁寧に、かつ踏み込んだことも書くつもりですので、冒頭部分を除いては、有料の記事となります。
さて、まずは一般的な注意からいたしますが、本エントリにおいて私が「瞑想」と言っているのは、ツイートでリンクを貼ったウ・ジョーティカ『自由への旅』において、主題的に解説されているような実践のことです。テーラワーダ仏教におけるウィパッサナーなどは、基本的に本エントリで言う「瞑想」にあたりますし、また禅僧である藤田一照師の言われる「坐禅」なども、この記事では「瞑想」として扱います。
もちろん、ここで私が言う「瞑想」以外にも、同じ言葉で呼ばれる実践は、仏教に限らず、その内外に多くあります。その中には、私が本エントリで「瞑想の本義ではない」とすることを、むしろ中心的な目的として行われているような実践もあるかもしれません。私としては、そうした実践の意義や存在を否定する意図はなく、この記事はあくまで、上に範囲を限定したような狭義の「瞑想」について述べたものであることを、最初におことわりしておきます。
では、本論に入ります。まず、引用したツイートで「個人的には、『この世のことが上手くいかない』という人には、必ずしも瞑想を勧めない」と書いている理由からですが、これは単純なことで、上手くいかない具体的な「この世のこと」がはっきりとあるのであれば、それに応じた直接的な対策をとったほうが、かかる時間も労力も、圧倒的に少なく済むと考えられるからです。
たとえば、健康上の問題を抱えているのであれば、病院に行って医者の指示に従うべきですし、異性から承認を得られなくて悩んでいるのであれば、巷のコミュニケーション本や恋愛指南書などを読んで、そこに書いてあることを自ら実践してみるのが解決の早道です。もちろん、その努力が実を結ぶとはかぎりませんが、少なくとも、そうした問題を直接的に解決することが本義ではない瞑想を実践するよりも、当該の困難に対する具体的な処方箋として提示されている方法を実践するほうが、迂遠でないのは確実でしょう。
とはいえ、そうした事情をよく理解した上で、「それでも私は、自己の決断と責任において、瞑想を実践したいのだ」と言われるのであれば、それを敢えて止めようとまでは思いません。「必ずしも勧めない」と書いてあるのは、そういう意味ですね。
さて、ここまで私が述べてきたのは、「瞑想はこの世における具体的な問題を直接的に解決する手段ではない」ということです。なぜかと言えば、瞑想というのは、そもそも「〇〇のために△△する」とか、「●●ができれば▲▲になる」といったような、「こうすればこうなる」式の思考、言い換えれば、未来の目的のために現在を質に入れる「取り引き(bargaining)」の文脈から、一時的にであっても離れることを、その本義とするものだからです。
このような瞑想という実践の性質は、一昨日の記事で書ききれなかった、「人生に信念は不要だとすること」と、「坐禅で心の柱を確立せよと勧めること」が、禅者にとって両立する構造と密接な関わりを持っています。そして、この構造はまた、引用したツイートにおいて、「この世のことは上手くやれるが、そのこと自体に虚無感が拭えない」という人に、「わりと瞑想がおすすめ」であると、私が書いた理由そのものでもあります。
以下では、この「構造」の解説を行った上で、「上手くやれること自体に虚無感が拭えない」方々に、私が瞑想を勧める理由について述べます。その内容は、既刊の拙著とも重なるところがありますが、それをさらに敷衍して、著作の中では述べることのできなかったところまで踏み込んで書くつもりです。
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