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「私」しかいない「世界」を生きる人たち

 昨夜は唐突に思いついて、一部で大きな話題となっていた「バチェロレッテ」の釣られクマー感想キャスをやってしまった(やってしまった)。

(※録画視聴パスは、11月1日のエントリより取得できます。)

 バチェロレッテに関しては、もしご覧になるのであればネタバレはなしで見たほうが絶対によいので、これから視聴する気のある方は、ネタバレ満載の昨夜のキャスは聴かないでおくほうがよかろうと思う。ただ、ツイートでもキャス内でも幾重にも申し上げたとおり、個人的には決して視聴はおすすめしません。まあ、カップルで鍋でもつつきながら適当に見るぶんには、それなりに楽しいかとも思いますが。

 というわけで、以下はバチェロレッテとは全く関係ない話なのだが、どうも世の中には「決断するということは責任を取るということだ」ということについて、理解が不足している人がけっこういるらしいということは最近しばしば感じることである。こんなことを言うと、直ちに私の脳内の某さんから「私はそんなことはない。私は決断する私にきちんと責任を取っている。私の人生は私が決める。これは私の人生だから」という抗議を受けてしまうのだが、私が言いたいことはそういうことではない。私がここで述べているのは、「決断するということは、それをした自分が自分に対してだけ責任を取れば済むという話ではなくて、その決断が他者の人生に何かしらの影響を与える性質のものなのであれば、その他者に対しても責任を負うということである」ということなのだ。責任という言葉が英語にすれば responsibilityや accountabilityとなることからもわかるように、そもそも「責任」というのはその本性上、いわゆる「自己完結」で済んでしまうようなものではないのである。

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