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オンラインサロンは宗教を代替できない
対話の難しさの話がTLに頻出する。不可視化されたお互いの軸に、うっかり踏み込んでしまう困難さがあるのだろう。そういえばわたしは創価学会員やイスラム教徒と話す機会も多いが、信仰者と話す際には相手の軸が可視化されるぶん、「それ以上踏み込んではいけない」という感覚がつかみやすい。
— 沼田和也(王子北教会牧師) (@numatakazuya) March 23, 2022
ある集まりで出家について歓談していた折、割り込んできた人がいきなり「出家なんかして、カネになるんですか?」と問うてきた。即座にその人には石ころぼうしが被せられた。 pic.twitter.com/JxpynECBvR
— 沼田和也(王子北教会牧師) (@numatakazuya) March 23, 2022
まともに応えれば、その人がさらに挑発的な問いを仕掛けてきて険悪なムードになることは、居あわせた誰の目にも見えていた。その人は他の人の会話にも首を突っ込んでは石ころぼうしを被せられていた。残酷なことではあるが、どうしようもなかった。
— 沼田和也(王子北教会牧師) (@numatakazuya) March 23, 2022
沼田牧師の上掲の連続ツイートを見て、「たしかにこういう人はいるなあ」と思うなどした。自分のことを思いきり棚に上げつつ述べるならば、ただでさえ空気が読めないのに、さらに言動が攻撃的だから、どのコミュニティに参加しても、周囲の人たちから自然と距離を置かれ、誰からもまともに相手をしてもらえなくなってしまう。まさに「石ころぼうし」をかぶせられたかのように、「姿が消えたわけではないのに、最初からそこにいなかったかのように扱われてしまう」ことになるわけだ。
現代日本の、とくに礼儀をわきまえた「まともな人たち」は、「他人の生き方に口を出す」ということを慎み深くも回避するから、「この人のコミュニケーションの仕方はよくないな」と感じたら、多くの場合において本人には何もいわずに、「ただ距離をとる」という選択をする。そのことの結果として、「コミュニケーションに難がある」その人は、どこに行っても「静かに排除される」経験を繰り返し、そのことによってますます「こじらせ」を深めるということも、実際にしばしば生じている事態だろう。ひょっとしたら、「己自身がそうした人間である」という自覚を、ひそかに有している人もいるかもしれない。
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