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私たちは幸せになるために生まれてきたはずだった

 上掲のツイートにもあるように、私はしばしば「みんな好きなことしなさいよ」といったことを述べるのだが、同時にたとえば国家のような、「一定の輪郭のある公共」の概念が社会に共有されていることも大切であるという話も常々している。そうすると、「個人に好きなことをやれというのと公共概念の維持を同時に主張するのは矛盾ではないか(個人に自由や主体性を放棄させるか、公共を諦めるか、どちらかしかない)」という疑問をもつ方も出てくるかもしれないが、私としては、そこはとくに矛盾するところだとは考えていない。むしろ話は逆であって、自由も主体性も確保できていない子供のような者たちが集まって社会を形成するに至ってしまったときにこそ、維持することが困難になるのが「公共」というものではなかろうかというのが私の理解だ。

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