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その「現実」は悲鳴のようで
「より汚く極端に、そしてより露悪的に表現すればするほど『リアル』に近づく」と考える人たちもいるようですが、私にはこうした言説はむしろ実情の曖昧さについて丁寧に見る労力は節約しつつ、刺激の強い言葉でなんとなく「向き合ってる感」だけは確保するという、自己慰撫的な現実逃避に見えますね。
— ニー仏 (@neetbuddhist) July 20, 2019
「私は誰よりも露悪的に語ったから、誰よりも現実を直視したはずだ」というのはもちろん中二病的な考え方なんたけど、それを必死に言わないといけない背景を考えると、しばしばその言葉は悲鳴みたいに聞こえますね。
— ニー仏 (@neetbuddhist) July 20, 2019
「刺激の強い言葉を使うことで、なんとなく『現実』を直視しているような雰囲気が出る」問題について少し考えてみた。上掲のツイートにあるように、その種の人たちが「より汚く極端に、そしてより露悪的に表現」する「現実」というのは、別に「リアル」でも何でもなくて、むしろそこからの距離を保つために語られているように私には見えるけれども、そうした表現が一部ではしばしば強く支持されるというのも実際のところだからである。
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