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「私そのものの価値」という無明

 昨日のエントリでは、GUCCIの話題から「世論」をコドモイナゴたちの羽音が埋め尽くす現状の不気味さと、その先に予想される将来の展望について述べたわけだが、今回は全く別の観点から、同じ騒動についてコメントしてみよう。まあこちらのほうがどちらかといえば、「ニー仏noteらしい」話になるかもしれない。

 こういうトピックが問題となった際に一般にしばしば語られるのは、「そもそもブランド物を己自身の価値代表物のように捉えてしまい、それを所有していないことが本人の人格的価値まで毀損してしまうかのように観念してしまうことの愚かさ」という(それ自体がしばしばマウンティングに他ならない)言説である。たしかに、幸いにもブランド物を自身の価値代表物として扱うような生き方を現在していない人々にとって、これは実に腑に落ちやすい話であるし、(昔ほどではないが)多くの人が支持したくなるのも自然に思える説ではある。

 ただ、この種のレトリックに対しては、「とはいえブランド物でなくたって、それを自由に買えるほどの経済力とか、あるいは学歴とか、そういったものを自身を装飾する価値として認識し、そこから『自己肯定感』を汲み出している人であればたくさんいるというか、むしろ私たちのほとんどはそうなのではないか」といった感想を懐く人もまた少なくはないだろう。こうした反応について、上の段落にまとめたようなことを語る人であれば、「だから外在的な価値によって自己肯定感を得るようなことそのものが間違いで、己の価値は己自身の中に見出さなくてはならないのだ」といったことを主張するかもしれない。これはこれで、「世間一般によくいわれること」の一つではたしかにあるだろう。

 しかし、ここから先は全くの私見であるが、そのような「私の価値は外的な文脈に頼ることなく私が決める」といった言説も、自身の規範として採用するには、個人的に物足りないものを感じる。そもそもこの文脈でいう「価値」なるものが、「外的な文脈」から離れて個人が任意に決定し、かつ安心してそれに準拠していられるような性質のものであるのかどうかということについて、私自身はたいへん懐疑的であるからだ。

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