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心を事実から守るために、「純粋」になる人たちのこと

 世界に存在する普遍的な「差別」や「暴力性」の問題一般について、単に知的刺激やマウンティングのためではなく、自身もその構造に加担する者の一人として深く本気で悩んでいる人というのは日本語インターネットの世界にもそれなりにいるもので、そういう方々を見かけたり話したりするたびに、「本当に高潔な人だなあ」と心から思っている。

 ただ、同時にそれは「人間」の力では及ばないこと、つまりは個人の振る舞いでどうにかなる範囲を超えている問題について、心を常に労しているということでもあり、それはそれでなかなかしんどいことではないかとも感じている。

 いわゆる「区別(差異)」や「(権)力関係」というものは、私たちが他者と関わりながら生きてゆく上で普通に存在するものであり、それらはしばしば、私たちの人生を豊かにしてくれるものでもある。たとえば、一般には「よいもの」だとされる「多様性」というものも、その字面からして「区別(差異)」を当然に前提とするものだ。

 このことは少し考えてみれば、ほとんどの人が社会の実情として承認するところであろう。その上で、そうした「区別(差異)」や「(権)力関係」について、それを「悪い」ものだと価値判断した時に、「差別」や「暴力」といったワードが選択されるというのが、現代日本語の一般的な用語法であると思う。

 つまり、「差別」や「暴力(性)」というのは、その言葉を選んだ時点で発話者が対象を「悪い」と価値判断していることが前提のワーディングであることが、少なくとも現代日本語における用法としては普通であるように思われる、ということだ。「差別は悪い」というよりも、「悪いことについて『差別』という言葉を使っている」というのが実際のところなのではないかということである。

 したがって、私は一部の人たちが言っている「差別と区別という言葉遣いの違いには意味がなくて、全ては差別なのであり、その中に『よい(有益で容認され得る)差別』と『悪い(有害で容認できない)差別』があるだけである」といった主張には個人的に賛同できない。「差別」と言った時点でそれは「悪い」ものを指すというのが多くの現代日本語話者の語感であろうし、そうではない(つまり「悪くない」)区切りや差異化のことを「区別」と呼称するというのは、それなりに意味のあることであり、まさに「悪くない」区別だろうと考えるからである。

 もちろん、「全ては差別だ」と主張する人たちは、「これは区別であって差別ではない」と言う人たちのほとんどが、己の価値判断を明確に示すためというよりは、むしろ自身が価値判断によって線引きをしていることを隠蔽するためにそのレトリックを使っている(ように見える)ことを批判したいのであろうと思う。「君は差別と区別という言葉を使い分けることで、あたかも自分が客観的な基準に従っているかのように装っているが、実はその両者を切り分けているのは君の恣意的な価値判断なのであり、つまりは自己都合で勝手な線を引いているだけなのだぞ」というわけである。

 この批判に関しては私も心から同意するものだけれども、それを言う人たちが、しばしば「区別(差異)」や「(権)力関係」といったものを総じて「差別」や「暴力性」に他ならない(それらに過ぎない)ものと断じてしまいがちなことについては、既述のとおり賛成できない。彼/女たちは「差別」と「区別」を都合よく使い分けることで自身の恣意的な価値判断を隠蔽する人々を批判するが、あらゆる「区別(差異)」や「(権)力関係」が「差別」や「暴力性」に他ならないと規定し、それを「現実」そのものとして提示することで、己の言説にひそかに価値判断を忍ばせているということに関しては、彼/女たちも(おそらく無自覚にではあるが実は)批判対象と似通ってしまっているからである。

 ここでようやく冒頭の問題に戻るけれども、私が気になっているのは、

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