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終わりのない「ババ抜き社会」

 ミャンマーなどの上座部仏教圏で暮らしていると、僧侶方や一般の仏教徒たちから必ず聞くことになる話に、「功徳というのはロウソクの炎のようなものだ」というのがある。

 たとえば、なけなしのお金をはたいて、お寺に食事の布施をしたとする。そういう時に、彼/女たちはたいてい、家族や親族や友人も呼んで相伴に預からせ、その功徳をシェアしようとするのが通例だ。お金を払っていない人たちにまでシェアをさせたら「自分の分の功徳が減る」のではないかと考えてしまいそうだが、当地ではそのような理解はされていない。一つのロウソクの炎を別のロウソクに移しても、元のロウソクの炎が減ったりはしないように、功徳というのは分け与えれば分け与えるほど、むしろ増えるものだと彼/女たちは考えている。

 そうした上座部圏の仏教徒たちの振る舞いを眺めていて、私が感じたのは「分け与えたり、助けたりすることに理由があるのはいいことだなあ」ということである。仏教の文脈から離れて私たちの常識というか、多くの日本人にとっての「現実」から考えれば、他者を助けるために自身のリソースを割くということは、そのぶんだけ己が「損」をするということだし、そんな損をしてまで実行した利他の行為をシェアしてしまうのは、それだけ「費用対効果」が低下してしまうということだ。「それでも私はやるんだ」という人はもちろん多く実在するけれども、上記のような「現実」を乗り越えてまでそれを実践するということは、当然ながらそれなりにハードルの高い行為ではあるだろう。

 ツイッターで「リベラルは都合が悪くなると問題を投げ出すだけで、自らリソースを供出して構造問題の解決をリードしようとはしない。結局のところは自分が損をしたくないだけなのだ」という趣旨の意見を目にしたが、気持ちはわかるものの、これは「リベラル」だけに限った話ではなかろうと思う。「保守」や「アンチリベラル」を自認する人だって、「自分が損をしたくない」のは同じことだ。私たちの多くは見ず知らずの他人のために「損」を分かち合ってやることを受容するための物語を既に失っているし、そうすると自ら他人のために「損」をする人間は単に「しくじった」だけだということになるから、そういうウスノロからはいっそ限界までむしり取ってやれということになりがちである。そんな立場には、誰だってなりたくない。

 社会のために「損」をしてくれる人というのは必要なのだが、自分が少しだけそれを引き受けようとすると、「相身互い」には全くならずに、むしろここぞとばかりに何もかもを押しつけようとする人たちが陸続と出現するのだから、もうよほど自分に近しい人たち以外のためには、決して自ら「損」は引き受けないようにしようと考える人が増えるのは道理だろう。かくして私たちは、終わりのない「ババ抜き社会」をやってゆくことになる。

 できれば他人を助けたり分け与えたりすることを「損」と感じないような物語を私たちが共有していて、だから自分が少しだけリソースを出せば、いつか誰かも自分に対して同じようにしてくれると期待できる社会が望ましいとは思うけれども、現状で直ちにそうなることは難しいというか、むしろしばらくは逆方向へと私たちの社会は加速してゆくだろうということは承知している。

 だからせめて、同じように感じている人たちと親しく付き合える小さなコミュニティは、自身の周囲に維持しておきたいものだなあと、はかなく考えたりしている今日このごろなのであった。 

(※以下は、もう少し「ざっくばらん」な話)

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