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他者の自律を認められないうちは、実は「一身独立」すら果たせない

 先月は吉村昭の小説を何冊か読んだのだが、その中に『冷い夏、熱い夏』という作品があった。吉村といえば記録文学の第一人者として有名だが、本作はどちらかといえば私小説に近い性質のもので、作者の弟の癌闘病と、その死までの一部始終を(おそらくはほぼ事実に基づいて)叙述したものである。

 さすがに『戦艦武蔵』等の作品で有名な作家だけのことはあって、最も仲の良かった実弟が死に至る過程と周辺の人間模様を淡々と「記録」しながら、それでいて読ませる小説になっていることには感嘆した。ただ、昭和59年に刊行された作品としての時代性の表れというべきか、吉村の分身たる本作の主人公は、病に苦しむ弟に対して、彼の病名が癌であるということを、その臨終の時まで徹底的に隠し通す。現在は本人の意志に反して医師が病名や余命を患者自身に告げないということはほとんどないらしいが、それが当然と感じる現在の私の感覚からすれば、『冷い夏、熱い夏』における主人公の振る舞いは、実に居心地が悪いというか、より率直に表現すれば不気味にすら感じられるものであった。

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