岡さんのヤバみ

 ちょっと必要があって、岡潔さんの文章を久しぶりにまとめて読み返してみたのだけど、発表された時系列順に読んでいくと、岡さんの思想と表現がどんどんヤバい方向に先鋭化していくのが手に取るようにわかって、これはなかなかすさまじい読書体験だった。

 岡さんは1960年に文化勲章を受賞した2年後に、毎日新聞紙上で『春宵十話』を連載し、それが1963年に単行本化されてベストセラーになって以後、精力的に著書を世に問うてゆく。だが、そのように岡さんが文章家として活躍した期間は決して長いものではなく、生前最後に公刊された著作は1969年の『神々の花園』が最後である(岡さんが亡くなったのは1978年で、日常の思索および講義や講演などは、死の直前まで盛んに行われていた)。

 というのも、どうやら三作目あたりから、岡さんの著書は徐々に売れなくなり、出版社もあまり出したがらなくなっていったということらしいのだが、2019年のいま改めて読み返してみても、「これは仕方ないな」と思えるところはある。現在入手しやすい角川ソフィア文庫版について言うなら、最初の『春宵十話』は普通に読めても、発表順では次の『風蘭』になると、もう厳しいと感じる人も出てくるだろうし、1968年に出た『一葉舟』にまで至ると、ついていける人はほとんど一握りになってくるのではないか。

 もちろん、そうして時を追うごとに(いろいろな意味で)ヤバさを増していく岡さんの文章の端々には、はっとさせられるような鋭い洞察や、輝くような美しい表現も混在していて、だからこそ彼の著作はいまもなお復刊されるし、彼の死後に生まれた新たなファン(私もその一人だ)も多くいるのは当然のことだと思う。現代において岡さんにふれる書き手たちは、たいていの場合、そうした「きれいな岡さん」の部分だけを選んで取り上げ、それ以外の「ヤバいところ」に関しては、とりあえずスルーするという態度を選択することが多いようだ。

 これ自体は、私も『感じて、ゆるす仏教』でそのように岡さんを扱ったし、実際そうするほかはないとも思うので他人様のやり方にけちをつける気は毛頭ないのだが、「本当にそれだけでいいのか」という思いも、同時に私の中ではずっとくすぶり続けている。彼の著作を読めば読むほど、上述した岡さんの「ヤバいところ」は、彼の「すごいところ」と、実は表裏一体であるように思えてくるからである。

 ただ、時系列で後になればなるほどヤバみが増しているということは、岡さんの中でもそうした「ヤバすごさ」のあり方は変化していっているということで、その点に関しては、今回の読み返しで思い当たったことがある。

 『感じて、ゆるす仏教』の最後で、『春宵十話』に収録されている岡さんの以下のような発言を取り上げたけれども、

宗教の世界には自他の対立はなく、安息が得られる。しかしまた自他対立のない世界は 向上もなく理想もない。人はなぜ向上しなければならないか、と開き直って問われると、いまの私には「いったん向上の道にいそしむ味を覚えれば、それなしには何としても物足りないから」としか答えられないが、向上なく理想もない世界には住めない。だから私は純理性の世界だけでも、また宗教的世界だけでもやっていけず、両方をかね備えた世界で生存し続けるのであろう。(『春宵十話』、角川ソフィア文庫、p.52f)

 この岡さんの「宗教的世界」と「純理性の世界」のあわいを生きようとする態度に、私は深く共感するのだが、晩年になるにつれて、どうも彼の理性の世界にかける重心は少なくなり、最終的にはほとんど「純宗教の世界」へと、岡さんは進んでいったように思われる。

 この点に関しては、個人的には憾みなしとは言いきれないのだが、彼自身の立場からしてみれば、人生の最後の時間を、己が最も関心を有していた対象だけに注ぎ込むのは当然のことであったのかもしれないし、それは見方によっては「境地の進み」とすら言えることであるのかもしれない。なので、そのあたりに関しては、「実に居心地が悪く感じるが、軽々に批判もできない」というのが正直なところなのである。


※以下の有料エリアには、先月のツイキャス放送録画の視聴パスを、投銭いただいた方への「おまけ」として記載しています。今月の記事で視聴パスを出す過去放送は、以下の四本です。

 2018年11月11日
 2018年11月16日(さむさんとの対談)
 2018年11月17日(長尾俊哉さんとの対談)
 2018年11月26日(沼田牧師との対談)

 二月分の記事の「おまけ」は、全て同じく上の四本の放送録画のパスなので、既にご購入いただいた方はご注意ください。

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