「暴力性」のレトリックは、いかにして「福音」となり得るのか
「暴力性」というワーディングの性質については、個人的にはリンク先の記事で決着のついている問題で、この用語の本質は、(想定されている行為の相手方ではなく)「この言葉を発する人」にとって「悪い」行為がそう呼ばれる、ということなんだよな🐱https://t.co/Up9BHFJm7J
— ニー仏 (@neetbuddhist) March 17, 2022
つまり、この用語に関する議論は、ある行為についての「相手方の価値判断」が問題なんだ、といった文脈に回収されがちなんだけど、実のところ真の問題は、ある行為を「暴力」と名付けて呼ぶか呼ばないか、という発話者のほうの価値判断なのであって、それは議論が噛み合わないのも当然という話タピよ🐈⬛
— ニー仏 (@neetbuddhist) March 17, 2022
近頃インターネッツで流行している(もう終息しているかもしれないが)「暴力性」の議論に関しては、だいたい私のいいたいことは下掲の過去エントリで述べ尽くしてしまっている。
したがって、「これ以上の贅言を弄しても仕方がないだろう」という気持ちでずっといたのだが、ついつい我慢できずにツイッターではいくつかコメントをしたりもしたので、まあnoteのほうでも少しばかり補足をやっておこうというつもりに今回はなったわけだ。
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