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「ノイズ」があるから語りは強い

 昨日のエントリでは「Youtube的な文法」が席巻する現状において、それでも「やっかいなテクスト(コンテンツ)」に対する人々の関心を持続させるための「時間を稼ぐ」手段の一つとして、「書き手」のみならず「話し手」としても活動しはじめる人々について言及した。

 上掲のインタビュー記事は、自身が「話し手」としても精力的に活動している東浩紀さんが、そうした実践の背景にある現状認識を語ったものである。これは昨日のエントリでも引いたものだが、そんなテクストを書いた私は、今月はまだツイキャスでの「話し手」活動をやっていないことを思い出した。鼎談キャスなどは予定されているので、つい雑事にかまけて後回しになってしまっていたのだが、さすがにそろそろ独り喋りキャスも再開しなくてはならないだろう。こういうのは筋トレと似たところがあって、長くブランクを空けてしまうと、カンを取り戻して以前のパフォーマンスを出すまでに、少々時間を食うことになってしまうのである。

 思い起こせば、ツイッターなどが日本でも一般に普及しはじめた10年ほど前の時期には、「どうもインターネットではテクストが強いのではないか」ということを言う人たちも多く見られた。もちろん、いまでも認識を変えていない方々もいるだろうが、やはりここ10年で技術や通信環境、そして配信サイト等がさらに充実したことにより、音声や映像によるウェブ上の発信が人々の可処分時間を占拠する割合は、ますます増えているように思われる。ツイッターのサービス開始時には iPhoneも存在しなかったが、現在ではスマホ一つ所持していれば、どこにいても自身の声を映像とともに、全世界に向けてまさに broadcastすることができる。今後5G環境などが当たり前になってゆけば、この趨勢は当然に加速することになるだろうし、テクストに対して人々の可処分時間が割かれることは、それに伴ってウェブ上でも(完全に消滅することは考えにくいにせよ)ずいぶん減少することが避けられないだろう。「書ける人」は今後のインターネットでもそれなりに強いままだろうが、Youtuberなどを見れば既に明らかに知られるとおり、「話せる人」や「見せられる人」の強さは、予見し得る未来のウェブ環境においてますます増大することが見込まれる、ということである。

 実際のところ、私の個人的な経験の範囲内でも、人々の「インターネットで話すこと」に対する関心の高まりが、肌で感じられることはしばしばあった。たとえば、上掲は私が「インターネットで喋るコツ」についてまとめて書いた過去記事だが、数年前のエントリにもかかわらず、とくに一番目のものは、現在に至るまで毎月継続的に、何人もの方々に購読され続けている。当たり前のことだが、日常の会話とは異なって、眼前に「リアル」の人間は誰もいない状態で、言わば「虚空」と向き合いながら、スマホなどを前に一人で語るということが、最初から上手にできる人というのは多くない。そういう(しばらく前までの常識からすれば)ある意味では「おかしなこと」を、それでもちょっとやってみたいと考える人たちが増えているからこそ、上のエントリは年単位で読まれ続けているのだと思う。

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