「かっこよく諦めて見せる」こと以外の選択肢

 土曜日の夜はオイパラさんしのさんとの鼎談キャスだった。私がツイキャスをする時には、独りで喋るか、そうでなければ二人で対談する形式がほとんどで、鼎談というのは久しぶりのことだったかもしれない。実は今週の木曜夜にも、鼎談キャスは予定されているのだが。

(※録画視聴パスは、2月1日のエントリより取得できます。)

 事前に挙げていたテーマは「学力はコミュ力に転用できるのか?」というものだったのだが、いつものとおり話題はそこから多岐にわたり、モテと身体の緊張、キャルちゃん、動画メディアと文字メディアの相違、右と左の多様性など、語りに語りまくった90分となった。

 こうしたトークの詳細については、もちろん録画をご参照いただきたいのだが、私が個人的に印象に残っているのは、「学力とコミュ力」問題から派生した、コミュニケーションにおいて「身体の緊張感」が果たす(ネガティブな)役割の大きさについての議論である。「知的能力に恵まれた人はコミュ力だって容易に鍛えられるはずだ」という認識は一面では正しいのだが、他方で知的能力によって容易に把握できることというのは基本的には言語化された、言わば「非身体的」な知識であって、その種の情報を本などを読んでいくら大量に獲得したとしても、「コミュニケーションに適した身体」が(知識の増大に伴って)自然に形成されたりするようなことはないという当然の事情は、実際のところしばしば見逃されがちだからである。

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