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チーズ牛丼が食べたくなったので書いてみた

先月投稿した読書note、ガラッと投稿のスタイルが変わったので伸びを気にしていたが、杞憂だった。目標だった2桁には到達したので、気まぐれにやっていこうと思う。

今月はいつも通り、ネットでプチ流行ったことについての雑感を書いていこうと思う。

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「チー牛」という単語は弱者男性を指すスラング・蔑称として定着した言葉の一つだ。同じような類の言葉だと、「こどおじ」も同様だろう。
前者はチーズ牛丼、後者は子供部屋おじさんの略称でもある。

「チー牛」が弱者男性のスラングとして急速に広まり出したのは下の画像がバズったことからだろう。


弱者男性特有の自分の外見に一切興味がない様を表している画像と言えるだろう

そんな令和を代表するスラングの「チー牛」だが、この言葉がなぜスラングとしての力があったのか、それを言語化している人は(少なくとも私の範囲では)見かけなかった。
多くは上記の画像が流行ったからだ、という説明で済ませている。

しかし、そんな「チー牛」がスラングとしてのパワーを得たのかを言語化している投稿を見かけた。

この投稿の「新しい人付き合いを作ろうとしない消極性、自分の半径よりも広いものを欲しない怠惰、そういう閉鎖的でジリ貧な生活習慣の全体を指して言う単語」というのが核心であろう。

このことについて、私なりに思ったことをつらつら書いていく。

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平成では「オタク」というのが同じような地位であった。
宮崎元死刑囚が起こした事件を筆頭に、アニメ好きで小児性愛の男性を指す蔑称として「オタク」はうってつけの単語であったので、長らく蔑称(時には犯罪者予備軍を表す単語)として使われてきた。

しかし「オタク」が好きそうなアニメやフィギュアなどが市民権を得て、男女や世代の垣根を超えていくようになると、「オタク」は自己紹介する上で便利な単語の一つとなっていき、蔑称として機能しなくなっていった。

蔑称としての毒っ気がすっかりデトックスされてしまい、かつて「オタク」と非難されていた対象を揶揄する単語を探していった結果、「チー牛」が誕生した。

しかし「オタク」と「チー牛」の違いの一つとして、知識の守備範囲の広さがある。

かつて「オタク」というと、岡田斗司夫氏や鉄オタで有名なタモリやミリオタ・自衛隊オタのカズレーザーのような、一定のオールラウンダーさを担保しながら特定の分野は尖った知識を持つような人物像であった。

しかし「チー牛」という言葉が誕生するちょっと前から、「オタク」が自分の興味のないもの以外の知識を持ち合わせてない、世間知らずさが目立つようになっていき、「チー牛」によって完成された。

己の知識欲によって吸収するのとは対照的に無数にある娯楽を垂れ流すことしかしない、そうした姿はまさしく「自分の半径よりも広いものを欲しない怠惰」さが現れている。
そして、こうした怠惰さというのは人付き合いにも影響してくる。

「チー牛」属性の彼らのネット上の発言などを見ればわかるが、彼らの一番の問題は、素直さの欠如だ。
ただ単に反発するだけならまだしも、自分の負の感情には素直に従うという点も厄介だ。

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しかし、知識欲の壊死による「自分の半径よりも広いものを欲しない怠惰」さや「素直さの欠如」の様子は、彼らだけではない。

SNSに没頭し続ける人たちに言える話だと思う。
政治系界隈も例外ではない。

自分の信仰するイデオロギーよりも少しでもはみ出たら、異端・限界だと非難し、1cmでもその半径を広げようとしない。
そして「謝ったら負け」を信条とし、素直さの欠片もない振る舞いを是としている。

「オタク」を揶揄する新しい単語として、「チー牛」が生まれた。
新たなスラングによって彼らは、社会から「はみ出し者」の扱いを受けている。だが、可視化されているから彼らの「はみ出し」具合に同情の声も集まるかもしれない。

しかし同じような特性を持つ政治界隈は静かに「はみ出され」ている。
どんなに崇高な理念や正論を言っていても、社会から孤立した人・集団からは耳を貸してはくれない。

政治界隈に必要なのは社会から孤立しないことだ。
思ってる以上に白い目で見られている。いくら雄弁に語っても、似た者同士からのいいねしかもらえない。

「新しい人付き合いを作ろうとしない消極性、自分の半径よりも広いものを欲しない怠惰、そういう閉鎖的でジリ貧な生活習慣」
この言葉は忘れないでいたい。

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