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巨乳キャラの献血ポスター起用に対する炎上について


最近の巨乳キャラ献血ポスター炎上について面白いBlogがあったので、ちょっと考えてみたいと思う。

男が女性を見るときは視覚野が主に活性化し、女性が男性を見るときは前頭葉も活性化するという研究データがあるように、男性が身体のパーツを、女性が男性の付帯情報を見るというのは、一般的な傾向として間違ってないと言える。

一方で、ちょっと深く考えてみたいのは、男性の繁殖に置けるコストの差が低いと言われている点だ。
確かに身体的なコストの事を考えればそうだろう。男性は性行為を数多くすれば子孫が生まれる回数は多くなるし、女性はどれだけ頑張っても一年に一回しか産めないのでその分コストは高いように思える。

しかし考えなくてはいけないのは、何故ホモサピエンスが進化的に一夫一妻制となったのかについてだ(勿論一夫一妻制でない文化も歴史もあるという議論は出来るが、基本的に一般市民は一夫一妻制である事が多いのでそれとして進めていく)。

人間の近縁であるチンパンジーとボノボは乱婚制である。
チンパンジーのメスは5年に一回発情期が来て、約半年の発情期の間に100を超える性行為を行う。
逆に発情期以外には性行為をしないので、オスは自然と競争が激しくなり、出生児では1:1であるはずの雄雌比が、成熟すると1:2(種族によってばらつきがある。1:3の種も)になる。

ボノボも発情期が来るサイクルはチンパンジーと同じだが、排卵を伴わない発情期も来る事で知られている。
これにより雄間の競争率が低くなり、ボノボは平和的な種族になった。

因みに四年の発情サイクルを持つゴリラは雄一匹に大体4体の雌を連れ、小さいコミュニティを形成している。
これはローマや日本の室町時代に形成された家父長制を彷彿とさせる。


それに比べ、ホモサピエンスの出産サイクルは1年と非常に短い(これはアフリカのジャングルを出た事により生存率(特に子供の)が激減し、それに適応するためと言われている)。
また子育てに掛かる負担が増えたため、カップルを形成して子育てをするようになり、一夫一妻制に変わった。一年という短い発情サイクルや、発情期が明確に分からない点など、一夫一妻制を成立させるための一助となっただろう。
ボノボやチンパンジーは雌が、ゴリラは乳児期を超えたら雄が面倒を見る。

ここで大切なのは、数多く子供を作れば繁殖可能性が増えるかというとそうでもないところだ。
子供は雄の育児参加がないと生存率が下がる(だからこそカップルで世話をする)し、子供の生存率が下がれば、繁殖には不利だ。
よって男側も複数の女性と子供を作るのは、逆に繁殖可能性を低くする恐れがあるということになり、また個体数を限って集中的に育てた方が将来の子供の繁殖可能性も高まる。
(托卵などの例もあるし、統計的に他の男との子供を夫と育てている人も一定数いるらしいので、一概に不特定多数と関係を繋ぐ事がまるでないとも言えないだろうが、他の多くの種では雄の育児参加が繁殖可能性にそこまで影響しないので、他の種と一括りにして語るのは少し危険だ)

男性側も試行回数が減るので、より知性や人間性を重視する必要が出てきただろうし、単純に女性側の知性が高ければ子供の生存率も上がる。
複数の女性と子供を作り、その中で一番出来が良い子供だけを育てる、ということが可能であればまた変わるだろうが、そのようなことが許されるケースなど殆どないだろう。



恐らくこの法則が変わったのは農耕が始まり、富を貯蔵できるようになってからだと思う(狩猟民族についてはそれほど詳しくないので、知っている人がいたらどのような社会形態をしていたかご教授ください)。

富があれば複数の女性と子供を作っても、その全ての面倒を見る事ができる。
生存率は維持されるので、このケースでは雌をたくさん周りに置いておく方が有利だ。
これは日本史で見ても世界史で見ても、割と散見される事象だと思う。
この状況下では知性や人間性に加え、身体的特徴も一夫一妻制の状況下よりは重視されやすい。

子供をたくさん生んでいる雄の方が繁殖率も高いので、人類のDNAにはこの傾向が残されるのも不思議ではないし、然し一方で富の独占ができない人類は複数の個体と子を成す事は難しいので、道徳や法律で縛ったり、不特定多数と性行為をしない傾向にある遺伝子も同様に残ったのだろう。

また農耕に切り替わったことで、男性的と称される特徴が重要ではなくなり、それよりも知性や人間性の方が重視されやすくなった側面もあるのかもしれない。


そして今、権力が解体され、人類皆同権が叫ばれ、富の一極集中への忌避感も増す中で、不特定多数と性行為をしようとする雄が厭われるようになったのも、言ってしまえば普通のことなのかもしれない。

平安時代の貴族や江戸時代の将軍周りを見ても、嫉妬心があるのは確かだが、不特定多数と性交することに関してのアンチテーゼは然程見られない。
強く見られるようになったのは明治時代以降、欧州の恋愛至上主義が文化に入ってきてからだが、この恋愛至上主義も同権を目指す社会改革を境に強く見られるようになったのではないかと思う。

だが難しいのは、今は雄が子育てに参加しなくとも、子供が死ぬことは少なくなったということだ。

勿論生存率のみでなく繁殖力も重要になってくるので、苦しい環境で育てばその分繁殖可能性が低くなるとは言えるのかもしれないが、フランスなどでは複数の異性と子供を作ることも多くなったとも聞くし(本当かはわからない)、ポリアモリーが流行ってきているのを見ると、昨今の価値観もまた変容するのかもしれない。
女性の性の解放も、男女での貧富の差の是正も一役買うのだろう。

また恋愛至上主義が台頭したのはたかだか数百年前で、生物としての進化は未だ追いついていないと言える。
この急激な社会変化が、昨今の男女の軋轢の一助となっているのは確かだろう。



男性の性的傾向に、「女性をモノとして扱っている」という批判がある。
先出したBlogから考えれば、「女性も男性を性的な意味で消費している。だがそれが男性の傾向と違うだけだ」という主張もある。

個人的な感覚からすれば、「人柄を性的アピールととる女性の方が、男性を人として見ているはず」と感じる確かだし、私自身もそう感じるが、身体的特徴も性格も全て含めて人であり、胸の大きさの誇張に興奮するからといって、女性をモノ扱いしているという理論は少々行き過ぎなのかもしれない。

またキャラの胸が大きいからといって、必ずしも胸の大きさだけでキャラクターを好きになっているわけでもないのだろう。

性的消費を厭うのはキリスト教圏の文化の影響が大きいと思うが(これにはまた別の理由がある)、私は時々、男性アイドルや俳優に対する好意とどう違うのかという疑問に駆られることがある。
どちらも消費している点では変わらない。

男性アイドルや俳優に対しての好意が性的欲求に繋がることは稀有で、セックスというのは身体にも精神にも非常に大きな影響を及ぼす行為であり、ただ視姦しているのとは矢張り障壁が違うのだろうかと考えることもある。
でも性的消費といっても見ているだけで本人に手を出すわけではないので、答えは未だに出ていない。

(過剰に身体パーツに対して興奮する人の方が女性を蔑ろにする傾向があるのはもしかしたら本当なのかもしれないが、私はその統計を確認したことがないのでそうとは言えないし、もし本当だとしてもそれは傾向があるだけで全てではない。「暴力的な人の多くは男性だが、多くの男性は暴力的ではない。犯罪者の多くが男性だが、多くの男性は犯罪者ではない。性的加害者の多くが男性だが、多くの男性は性的加害者ではない」というのは私が以前小論を書く際に使用した文献の言葉だが、私たちはこのことをいつでも心に留めておかないといけないのだと思う)

ちょうど今日学んで驚いたことだが、スペイン語圏では「デブ」「年老いた」「赤毛」「茶色の肌」などの言葉を愛称として使うそうで、そこに人を蔑む意味は全くないのだという。
人の身体的特徴をただの特徴として捉え愛称として使うというのは、このような言葉を蔑称として使う/捉える私たちとしては考えられないことだが、私は本来身体的特徴とはそのようなものであるのが自然なのかもしれないと思った。



まぁ、結論として一つ言うならば、「身体的特徴よりも人柄や知性を見る方が、"人間"として賢いと見られる」という感覚はすでに社会のミームに入っているので、その感覚の起源がキリスト教の性への忌避感だろうが何だろうが、ミームに従った方が繁殖可能性は上がるのだと思う。

だから「おっぱい大好き」と公言している男性よりも、そうでない男性の方が女性に好かれやすいであろうし、女性側が身体的特徴を重視する男性意識への批判を苛烈に行わなくとも、数百年経てばそうでない男性の方が多くなる可能性が高い(もちろん間に別の意識改革が起こらないことが前提ではあるが)。

そのことを踏まえて、男性も女性も、その他の人も、これからの自分の立ち位置を今一度考えてみると有意義だったりするんじゃないかな。

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