[コラム]我々は何故デスメタルに救われるのか
①デスメタルの持つ奥行き
聡明で思慮深い男ヘンリーは、ある一人の素敵な女性に恋をした。彼の兄であり、共同経営者でもあるジョンもまた、同じ大輪の花を愛でようとした。しかし、二人は揃って求愛の枝を折られてしまう。失意の果て、ほどなくしてジョンは早世し、ヘンリーに深い影を落とす結末となる。唐突に訪れた転機、事業は立ち行かない。それでもなお彼の思索は続き、やがて自然主義への目覚めを迎える。――静かな森の中に小屋を建て、そこで暮らそう。決意は固まった。他人と距離を置きたかったのだろうか。我々ヒトの暮らす世界、それ自体に嫌気が差したのだろうか。後にその暮らしぶりは『ウォールデン』という一冊の著作にまとめられる。時に、1845年の事である。
ヘンリー・デイヴィッド・ソローの記した『ウォールデン~森の生活~』は、現在に至るまで名著として読み継がれています。しかし、19世紀のお話なんですね。遠い昔の出来事に思えて、それでいて銃や車(馬車)、スーツ、企業、貨幣経済などの存在は現代に非常に近しいものがありますから、黴臭さを感じさせず強烈に我が身に突き刺さってくる訳です。
なにより、冷静に社会を観察するために、人里離れた世界に身を置く決心をするというのは素晴らしい話と言えませんか。19世紀の街の喧噪なんて高が知れている、などと馬鹿にしてはいけません。「当時ですら」文明社会に属さねば生きてゆかれぬ己が運命を呪っていたのかもしれません。そういった観点を早期に抱いていたからこそ、社会が成熟するにつれ自然主義の重みはより増すのです。
話を主題に近づけましょう。まず、以下の楽曲をお聴き願いたい。
擦り切れたレコードのようなノイズに始まり、グワンと弾かれるギターイントロ。それから唐突に嗚咽とも慟哭ともつかぬ絶望的なデスボイスが流れ込んで来ます。不安を掻き立てるような、それこそ森の狼が孤独と飢えに苦しみながら虚空に向かって吠え狂っているかのような錯覚がしてきませんか? テレレレ、テレレレと執拗に鳴るギターリフが、ここはモノクロ映画の世界なのかと、聴くものを音像の内側へと取り込みます。
極めつけは、8分15秒あたりから移り変わるラストスパートです。小気味よく踏み込み始めたドラムを機に、それまで寸前で抑えていた感情の昂ぶりが、真正面から一時に覆いかぶさるようにして広がっていきます。
まさに、圧巻。
ブラック・メタルのうち陰鬱的な側面が表立って描かれる一曲。アメリカのバンド、Wolves in the Throne Roomの名盤3rdアルバムの収録曲です。「Wanderer Above the Sea of Fog」とは、訳すと「雲海の上の旅人」となるでしょうか。同名タイトルに、1840年死没の画家、キャスパー・デイヴィッドの油絵があるようです。
再生してみたけどよく分からなかった、という方。すみません。こちらの感性でお話してしまいます。私としては「なんて美しい楽曲なんだ」と、震えました。正直言って。
喉を潰したのかと尋ねたくなるような声、デスボイスを主体に置いた楽曲が、ですよ? そう感じません? ピアノの優しい旋律やキャッチーな美メロ、聞き取りやすく万人に刺さる歌詞、といったアプローチは取っていないのにも関わらず。
映画も、設定とオチだけ説明されても感動はしません。同じように、ひとつの楽曲に10分以上費やしたからこそできる、決して3分半の流行歌では収まりきらない感情の揺さぶりが潜んでいます。このあたりは往年のプログレッシブ・ロックが辿った道筋と似ているかもしれません。
また、こちらのバンドWolves in the Throne Roomは、この現代に於いてなお
文明に極力頼らない生活を続けていると聞きます。ギターこそエレキですが、録音機材には現代の物を用いず、まるで数十年前の、黒人音楽から派生し生まれた直後のロックンロール黎明期を思わせるようなザラザラとした質感を生み出しています。
私生活としても電気やガスに頼らず、農場を運営しながら自給自足に近い生活を理想として掲げているようで。楽曲中に纏っている暗さ、負の感情を思わせる空気感は、決して急ごしらえの代物ではありません。生活に根差しているのです。
前述のH・D・ソローが足を踏み入れてしまった世界「反文明」や「反人間」に近しい思想を感じます。デスメタルやブラックメタルには「反宗教」や「反権力」を標榜するバンドがいくつも存在すると知りながら、それでも彼らは19世紀を思わせるような自然主義の世界を旅しているのでしょう。
だから感化されようとか、あなたの眼前にある端末を捨てよう、等とは主張しません。
ただ、不思議なものじゃないですか。デスメタルは、感じたままでいいのです。時間があったら、もう一度先の楽曲を振り返ってみてください。文明の利器を捨てた男たちが奏でる漆黒のヘヴィネス。再生直後のノイズは、森に降りしきる小雨か。悲壮感溢れるデス・ボイスが「何か」を訴えかけてくるリアリティを生み出してはいやしませんか。
「何か」が歌詞に答えは無くとも良いのです。あなたが感じたもの――
それは後々生きてくる。
芯から湧き出た感情です。
美しいとは思いませんか。
②ヘヴィな音楽との出会い
私は元々小賢しい早熟な子供で、授業内容というものは真面目に聞き取っていれば概ね理解できる程度の頭はありました。
すると、疑問が生まれてくるのです。なぜ単語や年表を暗記していたかどうかで人間に点数を付けるのだろう。なぜ「ゆとり教育」などという文科省が定めた教育指針によって人生を左右され、まったく今時の子供は~と貶されなければならないのだろうか。一度説明されれば分かる話を50分ジッと座って受けなければならず、家に帰っても宿題が束縛してくるのだろう、と。
高校受験を控えた中学三年の夏頃から私の精神は荒廃していき、不合理と現実とのギャップに耐えがたい苦痛を感じておりました。この時点で既に「反権力」や「反人間」に近しい悪感情が芽生えていたのを覚えています。
結局、受験勉強というものを自室で真剣に取り組んだのは、最後の一週間くらいなものでした。その有様で地元の進学校に入ってしまったものですから――キチンと勉強に取り組む世界から取り残されてしまいました。
流石に高校を出ない訳にもいかず、本拠地が県外にある広域通信制の学校へと転入をいたします。普段は自宅で課題を学習し、単位認定のための授業を受ける際にだけ、電車で2時間ほどの指定校へと赴かなければならない。そのような環境でした。
単位認定と言っても、本当に最低限の話です。自分で解いた問題集の答え合わせ、その解説を聞くだけの時間。授業と言うよりも「制度上スクーリングの時間を設けなければならないために仕方なく行っている」に近い代物であり、体育に至ってはボーリングを2ゲーム投げるだけです。周囲は10代とは限りません。ホスト/ホステスがやっぱり高卒認定くらいは、と再入学してきたような色彩豊かなクラスメイトです。その中で、スコアも何も関係ない義務としてのボーリングを投げる。――まあ、感想は控えましょう。
すると、時間だけは余るのです。早朝から2時間かけて指定校までやって来たのに、午前は授業1コマ。午後にももう1コマ。夕方になったら楽しい楽しいボーリングの授業。丸一日拘束されて実働は3単位のみ。
カリキュラムに文句を言ったら認定が貰えないので従順な生徒である他ありません。科目ごとに曜日が決まっているため、泊りがけで二日かけて5単位、そのようなスカスカな時間割を渡される日もありました。
指定校とは響きがいいものの、要は雑居ビルの一角の学習塾程度の広さです。時間を潰す待機場所すらありません。
授業間の空き、どうしよう。
街中にひとり、放り出された気分。それが最も近い表現だったでしょう。
そんな中、私はCDショップの前で足を止めます。今でこそ絶滅危惧種となってしまいましたが、当時はまだMDプレイヤーからiPodに至るデジタル媒体過渡期でした。比較的人口の多いエリアでしたので、誰もが名前くらいは聞いたことのある某有名チェーン店がショッピングビルの売り場を広く占めていたのです。
アンダーグラウンドな世界とまでは言いませんが、黒を基調とした店内にビッシリとCD棚が陳列されているのを見て、私は衝撃を受けました。多少なりとも洋楽ロック、ストーンズやツェッペリンを聴く趣味はありましたが、それ以外に聞いたこともないようなアーティスト名がずらりと並んでいます。視聴台には新譜が掲げられており、J-POPからJAZZまで追いきれないくらいでした。
ある日、そこで運命の出会いを果たします。当時、アメリカン・ニューメタルの旗手が一枚のアルバムをリリースしていました。
Kornの7thです。
ジャンルも何も分からなかった私は試聴台にデカデカと張られたジャケット写真を見て、最初ゴシックロック系か何かのホラー風なのかと勘違いしました。
前述の通り、時間を潰せさえできれば何だっていい気軽な身。鬱屈とした10代は、恐る恐るヘッドホンを手に取ります。
これは「あり」なのか。それが第一の印象でした。
ドラムとベースのキック感が強く、少なくとも安っぽい流行歌のような聞いている方が情けなくなるペッタンパッタンとした軽々しい音作りではありません。
がしかし、大きく盛り上がる訳でもない、ジャケ写通りにダークな世界感のままずっと低空飛行しているような――でも歌メロ的なのはあるし、がなり立てているのとは違い――いやいや、ツェッペリンだって民族音楽的アプローチを取り入れたんだ。ずしんと来て耳に響くような。
……もう、混乱そのものです。
収録曲”Love Song”ではヴォーカルのジョナサンが「Love song for the dear departed/Head stone for the broken hearted~」と小気味よくコーラスしますが、一般通念上の「ラブソング」ではない事は英語が分からずとも明白です。別れただの実は好きだっただの思い出して泣いているだのと言ったJ-POP的感性に1mmも掠っていない事実に、苦笑いすら漏れてしまいました。
思春期特有の未知なるものへの憧れ、所謂中二病。そうカテゴライズしてしまえば単純な話かもしれません。
しかし、暇な時間という隙間を埋めてくれる”何か”。
五月蠅い煩わしい消してしまいたい地元とも家族とも学校とも街の喧噪とも世界とも切り離してくれる”何か”。
今すぐ耳を塞いで、音で埋め尽くしてくれ! と願う際の”何か”。
ヘヴィな音楽、それは当時の私にとってぴったりな代物でした。
ロバートプラントやデイブグロールのヴォーカルスタイルは許せるのに、一歩ヘヴィネス界隈に踏み入れたらNG。そんな境目はありません。ロックからハードロック、ヘヴィメタルに至るまで、徐々に嗜好を広げてゆきます。
アルバムひとつ、たった40分だけでもいい。音楽に救われたい。
誇大表現ではありませんよ。効きましたから。
③デスボイスである必然性
ヘヴィメタルに対して抵抗が無くなりだし、本気で喧しく叫ぶジャンルではない限り聞きこなせるようになってから数か月経ちます。まだデスボイス、グロウル(唸り声)に若干の抵抗を残していた時に、二番目の大きな出会いがありました。
メロディック・デス・メタル。しかも遠い地、スウェーデンから。In FlamesのCome Clarityがリリースされました。
だいたいジャンルが分かってしまうのは有難いのですが、これもまたジャケット写真先行で若干引いていたものです。KornやLimp Bizkit、Rage Against the Machineならば消化できた。ただ本格的に怖そうなのは……と、試聴台の前で悶々とする当時の私でした。
聴いていただくと分かるのですが、本来ザクザクと鉈で斬り進むような音楽性を持つデスメタルに、印象的な美メロを持ち込んだものがメロ・デスとなります。また、ハードコアやデスメタルにはギターソロを用いないバンドも多いのですが、このIn Flamesは作曲者であるギターのイェスパー氏の魅力が前面に押し出された曲展開である点も特徴です。
リンク先の曲で言えば「ダーダッダッダッダッダッダラララー」と、開幕一撃で脳天を貫くイントロが素晴らしいものです。掘り下げていくとツインギターそれぞれの演奏ライン、ベースライン、バスドラムの底と、確固たる構成力があるからこそ厚みが増してギターリフにも輝きが出るのだなと分かります。
当然ながら、飲み込んでしまえば早いもの。時間だけは持て余していた私は、なけなしの小遣いからCD代を捻出するようになり、本格的にデスボイスにもハマり込むようになってゆきます。
しかし、どうでしょう。本当にこのようなヴォーカルスタイルは必要なのでしょうか。オールドスクール・デスメタルを経ずに派生形から入ってしまったもので、疑問を抱かずにはいられませんでした。
さらにメロデスの派生形であるメタルコアになると、曲の8割はデスボイスで進み、サビのメロディだけクリーンボイスで歌う、というハイブリッド方式で人気を得ていました。疑問は深まるばかりです。
例えば人間椅子の”芋虫”は江戸川乱歩になぞらえ、芋虫のように惨めな自分、それでも欲だけは消えてくれないんだという絶望、感情の吐露が描かれています。暗く、ヘヴィで、うねるようなベースと二転三転する曲構成。これらが至高の名曲へと昇華させています。
するとデスボイス、グロウルボイス、ガテラルボイス(極低音ボイス)等は必ずしも必要ではないのでしょうか?
私は音楽的素養はありませんし、断定的な事は言えません。ただ一つ手掛かりになるのは、デスボイスを聴きたくなる場面というものが確かに存在するという事です。
少し前、X(旧Twitter)上で話題になっていたポストに「常に何か物事を考えてしまうのは当たり前だと思っていたのに、他の人はどうやらそうでないと気付いた」という旨の内容がありました。
ずばり私もそれで、先述のような学生時代ですと「仕方なく授業を受けることになったが頑張ろう」から「こんな中途半端な時間割で呼びつけやがって」に変わってしまう場合がありました。どうも、永遠に辿り着かない思索の果てを探し続けてしまうのですよね。
沸々とした怒りを持ち続ける場合もあれば、嫌な記憶がフラッシュバックしてきて、止め処なく溢れる場合もある。ポイ捨てされた煙草を見掛ければ、社会正義と道徳から環境汚染、天下国家に至るまで。脳のスリープモードや低回転モードが欲しいのに、常に何かしら意味のある物事を演算してしまう。
ここまで読み進めた方の中で、同じような感性をお持ちの方はいらっしゃいませんか?
そんな時、歌詞が「聞き取れてしまう」と、連想が止まないのです。英語詞だって、簡単な文法や単語くらいならば頭に入ってきます。声が、言葉が、意味を成さないでいてほしい。退廃的な願いにも感じられますが、そういう日もあるのです。
言い換えれば、ペットを含めた動物にだって言及できます。彼らが人語を完全に理解し、発声により指示を飛ばしてきたらどうでしょうか? 気味が悪いと思いませんか? 動物は確かに生きており、人語をなんとなく分かっている節がある。それでも人間とは明確に隔てられており、同族間のような関係性を構築する必要がありません。嫌味な上司と同じく人語を話す猫なんて居たら、ビジュアルに反して全く可愛くないですよね。
そこに何かしらの意思が介在していて欲しいが、意味を持ったまま意識することを要求するようでは困る。
ただのノイズ、洗濯機の回る音や、見ず知らずの車が通過していく様、AIが出鱈目に配列した音符等では「音」であっても「曲」ではありません。曲として聴きたい、意味を成していて欲しいが、歌詞が聞き取れてしまうと疲れる。
なんと我儘な事か。
それでも、私が感じたひとつの側面です。
④もっと繊細に、荒々しくもあれ
少々小難しく考えてみましたが、勿論シンプルに演奏技術が素晴らしいという面もあります。ヘヴィメタル特有の歪んだチューニングに連射のようなドラムスタイル、そこに力強いヴォーカルが乗れば、持てる全ての空間を埋めてくれるのです。
「音として伝わる空間」に限定したものでもありません。ヘヴィネスに不慣れな方からすれば理解し難い現象かもしれませんが、遮音性の高いイヤホン/ヘッドホンをした状態でよく練り込まれた楽曲を聴くと、「一個人が持てる認識可能な範囲としての空間」が埋まるような感覚があるのです。
不思議なものでしょう。テクニカル・デスメタルやプログレッシブ・デスメタルになると、より一層その難解さ故に空間の比重が上がります。
デスボイスとクリーンボイスの対比を最も美しく組み込んだ名曲のひとつが、このDemon of the Fallです。
一聴して私は、暗く沈んだ感情を基に描かれた楽曲であると感じました。他の皆さんもきっとそう思うことでしょう。第一章で「何か」を感じ取れればそれで良い、己の感じたままを大事にしようと述べました。第三章では、意味を成さない事が時として心地よいとも。
しかし「Run away/Run away~」と繰り返される後半のフレーズ、気になりますよね?
和訳を読むと、要するにこの曲は、死してなお幽霊として蘇ってしまった男の話だと分かります。かつての恋人の元に戻るが、彼女は悲鳴を上げて逃げ出してしまう。そうか、自分はかくも恐ろしい化け物になっていたのか。逃げろ、逃げろ。後には彼女の残り香だけが漂う。――クリーンボイスに切り替わる瞬間と、Demonと化した男から”憑きものが取れる”歌詞が重なっているのですね。これはデスボイスだから醸し出せた迫力のひとつであり、人間が持てる負の感情の部分を声という武器に乗せた好例です。
複雑に入り組んだ曲構成で聴き手を飽きさせず、それでいて尚、歌詞を理解しようとすれば意味は通じる。素晴らしい塩梅とはこの事でしょう。
総合すれば、ヘヴィメタル/デスメタルの魅力の大きな要因として、まず音圧の強さ/ヴォーカルの激しさがある。それでいてドカドカとした単純なノイジーサウンドに陥らず、一本芯の通った曲構成、複雑で魅力的な展開が繰り出される点もあると。
人によっては、ヘヴィメタルはクラシック音楽にも近いと表現される方も居ます。これらが持つ芸術性の高さを感じ取りたい。――そんな日にはプログレッシブな楽曲を。
湧き上がる衝動、怒りをどこにぶつければいいのか。もっと荒々しくギターを掻き鳴らし、喉が潰れる寸前まで叫んでほしい。音圧で俺を潰してくれ!――そんな日には直情的なデスボイスを。
他人が、周囲が、街並みが、景色が。自我と世界の境界があやふやになり、黒く冷たいものに包まれている感覚。辛く、苦しい。救いはあるのか? 誰か、聞いてくれ。本当に何も感じないのか? 自分だけなのか? ――そんな究極の鬱屈した感情を爆発させているのが、ブラック/デプレッシブな楽曲と。
選びたい放題なんですね。
例には挙げませんでしたが、60年代っぽさを感じさせるロカビリー・メタルや、ハープやフルートまでを取り込んだフォーク・メタルなど、懐の深さは随一です。自分に合ったサブジャンルを見つけ、楽曲と同一化するかのように音像に取り込まれれば、きっと一時の癒しが得られるでしょう。
癒し、誤字ではありません。デスボイスを聴いて救われた気持ちになる。そういった人種も世の中には存在するのです。
古来、稲作の際にただ意気高揚のために太鼓を叩いて音頭を取る係が居たと聞きます。音楽持つ効能が、ちょっぴりと激しくなり、何歩か複雑化しただけ。恐ろしいものではありません。
現代が生んだヘヴィネス。それに救われる人間も居るのだ、というお話でした。
ここまでお読みいただきありがとうございました。皆様の日常がより豊かで過ごしやすいものである事を願い、締めの挨拶とさせていただきます。
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