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ダリダの病

「治りませんね。」とぼけた古い病院で私は医者にそう言われた。
この病院に来るとき、タンポポを見つけて「早く綿毛をふーっとしたいな」なんて呑気なことを思っていた。
種をできるだけ遠くまで飛ばして、見知らぬ土地でまた、子供が笑っているような、黄色い花を咲かせてくれたらなんて。
綿毛の花言葉は「別離」という。昔祖母が教えてくれた。種が飛んでいく様を別れと例えるなんて子供心にはスパイシーな話だったし、別れるという意味もよく分からないまま、ふぅんなんて思った。

さっきの医者は、白衣に薄いシミがついていた。胸のあたりに。白衣を脱がずに昼食に食べたカレーうどんの汁が跳ねたものなのか、もしくは患者の分泌物が飛んできたものなのか。まぁそんなことはどうでも良いけど、サバサバしすぎて私は嫌い。

私に夫はいない。私の親と同居して3年目の秋にいきなり失踪をした。廃墟のように静まり返った私たち夫婦の8畳の部屋には、夕食のカレーの匂いが通り過ぎてもただ虚しく静まり返っている。ハンガーにかかったままの夫のベージュのカーディガンは、時折窓のそよ風に吹かれて幽霊のように袖がパタつく時もある。私はそれが嫌い。

「あんた、病院行って来たの?」母は台所で米を研ぎながら言った。「まぁね。あー、もう治らないんだってさ」
「え?なに?そうだ、これこれ、これいいらしいわよ、飲んでみなさいよ」プラスチックの入れ物に入った「ビタミンC」を手渡された。降るとカラカラとカプセルの音がして、一体何錠入ってるのか恐怖を感じるくらいのお得な大容量だった。
母はいつでも、元気なロゴや噂話やお得な値段に負けてしまう。私はそれが嫌い。

私の描いた理想の人生に、今のところ誰も登場していないのが可笑しい。
理想の人生にある雰囲気。
優しくて深い何か、うーん、絆みたいなもの。飽きない会話と誠実な態度。嘘だとわかってても許してもらえた経験。
一般的な感覚から少し遠くて、でもいつでも戻ってこれるような雰囲気と安全さ。
食べたものは全て体の栄養となり、私を救う。そんな暖かい人生。

ドカドカと歩きながら父が帰ってきた。父の湿った靴下が板張りの廊下を温める。
「ばぁちゃんの饅頭買ってきたぞ」「あぁ、そういえば今日命日か」今祖母が生きていたら私の病についてどう反応しただろう。
仏壇に茶色い黒糖饅頭をお供えした。「おばぁちゃん、助けて。饅頭あげるからさ。もう治らないってどういうこと?てゆうか何をしたら正解なの」祖母は厳しい人だった。転んでも起き上がるまで叱咤し続けるような。父は甘えん坊だから祖母とは折り合いが悪い。祖母は今の私にも叱咤し、尻を叩き、「根性だ!」というのだろうか。
「ねぇお父さん、私が死んだらどうする?」「なーに言ってんだ、いなくなるのはお前の旦那だけで十分だ」「また、、帰ってくるかもよ、ひょっこり。だってきっとまだ私のこと好きだと思うし」「なんでそう思う?惚れた女は1秒たりとも離したくないのが男だろうがよ。あいつはな、かわいい女の尻でも追っかけて今頃地球の裏側かもしれないぞ、ハハハっ」父は腐ったように固くなった足の爪を切りながらそう言った。父にとっては「多分」かわいい娘なのだろうに、「きっと」本当みたいなことをオブラートに包んだりすることなく、もしくは全然違う優しい嘘を言うわけでもない、「この感じ」が、私は大嫌いだと改めて思った。

仏壇がある居間には、昔から水晶が飾られてある。丸くて紫の座布団に乗った直径20センチくらいの。きっと母がテレビショッピングかなんかで「開運」と言う文字に憧れて買ったものかもしれない。昔飼っていた黒猫のピー助がその水晶にマーキングした時は、母が怒り狂っていたな。占い師みたいに、私はじっと見つめてみた。その丸くて透明な水晶を。何か見えるの?未来が?
何も映らない。強いていえば憂鬱な私の浅黒い顔が写っている。前髪そろそろ切りたいな。
もう少し集中して水晶を見つめてみよう、もうこの際、暇だし。よーし、集中。

水晶の奥の町には、ちっぽけな人が暮らしていた。
誰かと手を繋いでいる。大きくてふっくらした理想的な手。ああ、暖かそう、人生設計に出てきた手だ。
手は変わるがわる中の人を包み込んで暖めると走って逃げていく。そのうち、大きな豚毛のヘアブラシが現れて
ちっぽけな人の胸まである髪の毛をやさしくとかしている。私はみているだけで気持ちよくなって睡魔に襲われた。
その町をブラブラと歩いていると、夫らしき人が歩いていた。私は夢中で追いかけて追いつき、背中をタンっと叩いた。
振り向いた夫は、心が安定している人がするような笑顔で私を見ていた。逃げないんだ、私が追いついても。
そうこうしているうちに、普段ケンカばかりの父と母が、仲良く腕を組み歩いて横切った。私はふと、いつになく穏やかな気持ちが体を支配しようとしている事に気がついた。
何か、変なガスのようなものが町に充満しているかのように、何かが少しだけ違っているのだけど、とても心地よかった。

夫は私の手をとって頬につけた。わぁ、久しぶりの感触、好きな人の頬。何も喋らないのだけどとても優しいメッセージを伝えているかのように錯覚した。と、和んでいると夫が喋った。「おばあちゃんの言うことをよく聞くように。僕がしてあげられるのはこれだけだよ」
ヒュウッ!あ!消えた!夫が2度目の蒸発をした。目の前から忽然といなくなったのだ。
ああもう嫌だ、本当にみんな大キラ、、、と叫びそうなになった時、祖母が私を抱っこした。「おばあちゃん!?」
祖母のサイズよりも一回り大きくなっている。人は死ぬとあの世で膨れるのかもしれない。
祖母は猫のように喉を鳴らしながら私の頭を撫でた。「いいこ、いいこ」そう言いながら。猫独特のザラザラの舌が伸びてきて、舐められたらどうしようと思うくらいの猫みたいな祖母。私は更に眠たくなって、多分毛むくじゃらの祖母の膝でウトウトした。

金曜日だった。目覚めた私は数日の記憶がない。あのサバサバした医者が私を覗き込んでいた。
「あの日は意地悪言ってごめんね。そうだね、治るとしたら2年くらいかかるかな」
ホッとした私はびっくりしたのだ、まだ「生きる」ことを続けたかったのかと。

あの町にはもう行けないかもしれない。水晶をじっと見つめても。いや、それも分からないな、決めないでおこう。
ひとつ、大きく深呼吸をして白いシーツを足で撫でたら、「病」から何かを取り出したような、これからの日常が新しく私に手招きをしていた。折り合う、私と私も。

少し休んだら家に帰って、部屋を片付けよう。ベージュのカーディガンは捨ててしまおう。お化けが怖いし。
掃除機をかけて窓も拭こう。向こうがよく見えるように。父と母と夕食を食べよう、私が作る。そうだなみんなが好きなビーフシチューがいいかな。もう少し迷惑をかけるかもしれないけど、きっと許してくれる気がする。

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