見出し画像

推しと「ロス」と。

突然ぽっかりと空いた穴があったなら、穴が空いた理由を納得できるまで見つけたくなるのが、残されたものの性(さが)なのだろう。

ある一匹の猫の訃報

芸能人の訃報が耳に入ると、私は例えそれが誰であっても少なからず心がざらつく。ましてやその訃報が自分の「推し」のものだったなら、向き合えるまでそれなりの時間を要する。
こうして突然ぽっかりと空いた穴を「ロス」と呼んだりもする。

そして、絶賛一人暮らしを満喫している私が、先日ある一匹の猫に「ロス」を経験することになる。

積もった愛おしいという感情が、突然やり場に困る感覚。「ぽっかり」は、こんな時のための副詞なんだと実感した。

「推し」の「ちゃとらん」

この記事の執筆に際して、ねこひげハウスの「ちゃとらん」についてインタビューさせていただいた動画を数回見直した。

その動画からは、ねこひげハウスの方々がちゃとらんに向ける愛情が動画なんかに収まらないくらいにぎゅうぎゅうに詰まった様が伝わってきた。

どんなふうに書けば、ちゃとらんの可愛らしい部分が伝わるのか、ちゃとらんがねこひげハウスにやってくるまでに経験したことを真っ直ぐ描けるだろうかと思案していた時だった。

ちゃとらんの訃報を受けた

ちゃとらんに直接会ったことは一度だってなかった。
私がちゃんとらんに会えるのは画面越しだけ。
それでもちゃとらんへ感じるこの気持ちは、まさに「推し」への感情と同等だったと思う。

それが、たった一つの知らせで宙ぶらりんになった。
文面をただぼーっと見つめながら、「これが、推しへのロスかぁ〜〜」と唸った。

ちゃとらんの生い立ち

撫でられるちゃとらん

ここまで、諸々すっ飛ばしてちゃとらんについて言及してきたので、ここでちゃとらんの簡単な生い立ちをお話ししておきたい。

ちゃとらんは仔猫の頃から、「アニマルホーダー」が管理する4畳半のプレハブで暮らしていた。アニマルホーダーとは、自家増殖を繰り返したり、動物保護を目的に間違った形で動物を連れてきて抱え込んでしまう人を指す。

ただ多数の動物を飼育しているだけではアニマルホーダーと呼ばれるわけではない。飼育環境が十分に整備されていない状態で、多数飼育を行う飼い主に使われる言葉である。

たった4畳半のプレハブと、気持ち程度の1台のエアコン。そこには最大10数匹の猫が飼育されていた。決して清潔が保たれているとは言えない状況で、ちゃとらんは19年もの間暮らしていた。

その後、この当時の飼い主の引っ越しに伴い、埼玉県の保護シェルター・ねこひげハウスに引き取りの依頼がきたことで、ちゃとらんはねこひげハウスにやってくることになった。

カメラ目線もばっちり

私と実家の猫のお別れ

私が大学3年の冬だった。実家から我が家の猫の訃報が届いた。バイトの直前、更衣室でLINEの文面を追いかけて、ひとり目を腫らした。15年間一緒に暮らした家族の死は、ひたすらに寂しかった。

しかし、どこか心の準備が出来ていた自分もいて、今思うとその理由は「老い」をゆっくりと目の当たりにしていたからだと思う。ゆっくりと老いる姿を見つめられたのは、ある種の幸福だった。

少しずつお別れの心算(こころづもり)をする時間を、我が家の猫は与えてくれた。会うたびに細くなっていく身体。指通りが悪くなり、オフホワイトからアイボリーに色味が変化した毛。
それらをまざまざと直視するのはつらかったが、それでも全部が愛おしかった

そんな愛おしい存在が、息を引き取って、燃やされ、小さな瓶に入った形で私の手元に届いた時は、さっきまで形を成していたものがサラサラと手元からこぼれていく感覚に近かった。

それは、突然空いた穴ではあるのだけど、陥落(かんらく)していく様子をそばで見ることしかできなくてできてしまった穴で、まばたきの間にできてしまった穴ではない。

この点において、「推し」と「私」という距離感は非情だ。まさに「推し」の訃報は、まばたきの出来事なのだから。

そして、一瞬にしてできあがった穴を目の前にして、どう悲しめばいいのかすらわからなくなる。

悲しみの穴に何も詰めないで向き合うということ

かわいい寝顔

私がちゃとらんに愛を手向けた期間なんて、ちゃとらんが生きた十何年のうちのごくごくわずかな期間。それでも喪失感は大きかった。

同じ共通言語を使うもの同士でも、自分以外の人を完全に理解することなんてできないし、ましてや言葉にすらされなかった他者の感情や感覚を察するなんて到底できるはずもない。

しかし、突然の「死」を前にした時、多くの人は「死」に理由を求める。納得できる拠り所が欲しくなる。

ちゃとらんがねこひげハウスにやってくるまでの経緯や、保護当時のお話を思い返して、「どうか保護された間くらいは、ちゃとらんにとって辛苦の少ない時間だったと思ってくれてたらいいな」と願った。

ちゃとらんの話を聞かせてくださった時の様子を思い返しながら、「きっとちゃとらんは、たくさん感謝してるはず」という言葉が、間髪いれず喉から出そうになって飲み込んだ。

これはあくまでも個人的な意見でしかないのだが、「死」に過剰な意味を持たせることも、死後に「その人の感情」を推察して語ることは不誠実な愛だと思う。

ちゃとらんが何を感じていたのか私たちに知る術はないのだから、いくら悲しみの穴が大きくても無理くり何かを詰め込んではいけない気がする。きっと、幸せを願うことと、ただまっすぐにありのまま「死」を受け止め、向き合うことは両立するはずだから。

口でいうは易しだし、「ロス」は不意に継続的に襲ってくるから厄介なんだけど、気長に「ロス」と付き合うことが、せめてもの追悼の意になるのだと信じたい


ちゃとらんのストーリーはこちら🐱

ちゃとらん一緒に生活していた保護猫の「グレ」のストーリーはこちら🐱

ちゃとらんを保護したねこひげハウスについてはこちら🐈


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?