見出し画像

マンション【短編小説】

大きくそびえ立つマンションがある。大体20階建てだろうか、それとも10階建てだろうか、どちらにせよ見上げないといけない。淡いえんじ色のモザイク状の壁を持っている。ちょいと指を滑らせてしまえば、いつでも取り外せそうなくらい壁は不安定だ。輪郭を世界の裂け目が縁取っている。こんなモザイクでできた直方体が、ぼくの街にはいくつも建っている。無機質に何個も建っているのに気づくたびに、ぼくは言いようのない不安を感じる。

ぼくのお決まりの休憩コースは、大通りのコンビニを少し通り過ぎたところにあるちょっと広めの公園の、大きめの池の周りをきっかり3周することだ。ちょうど3周。これより多くても少なくても具合が悪い。

夏の某月某日、いやに風が強い日だった。街を左右に突っ切る電車が光を反射して、目の前のあたりを飛び回る。大きな音を撒き散らしながらその電車は一心不乱に通り過ぎた。もしかしたらこの電車が風を作り出しているのかもと思い、言いたくはないけれど、蚊が耳の周りに飛び寄るようなうざったさを感じ、ぼくは顔をそむけた。

線路の高架下に、線路とちょうど直行するように幅広の河川が流れている。その河川沿いを、まるで習慣化のために毎日ランニングシューズを履いて、そろそろ飽きたかなあ、最近モチベーションが無くなってきたな、これが習慣化の一つ目の壁だぞと自分を励ますぐらい長々と歩いた後、左手に見えるコンビニを見届けてさらに3ブロックぐらい進むと、ようやくぼくの休憩コースに着く。

疲れてしまったときこのコースを進むのだが、家からこの公園にたどり着くまでとても時間がかかる。けれど休むためにはむしろこの退屈な距離と時間が必要なのだ。

あめんぼが静かに佇んでいた。

いつものようにぼくはすこししわのついた白Tをうちわのように扇ぎながら、何気なく池の周りをゆっくり歩いていたのだが、あめんぼの周囲だけ止まっているように感じて、ぼくは見つめずにはいられなかった。池の上に佇むあめんぼ。

あたりの風や日差し、草木の騒々しさと全く対照的に、あめんぼだけが静かにこちらを見つめていた。水面には波一つたっていない。多分、あめんぼがなにかの吸収剤になっているのだとぼくは思う。

ぼくは決まって池の隅にある飛び石を渡って、池を一口かじるみたいに横切る。飛び石は9個ある。前方に斜めに傾いていたり、谷折りされたあと開かれなんとか折り目を消そうとしたみたいな凹んだ石がある。ぼくはきっかり9歩使って、右足から始まって右足で終わらせるのだ。

ちょうど5歩目、右足が地面につくかつかないかというときに、ゼミの斎藤くんに声をかけられた。

「たけるくんじゃん、何してんの」

彼は何というか自由奔放に動く人で、ぼくとは遠くにいる人というイメージだった。ちょっと変なイントネーションでぼくの名前を呼んだ。普段声を交わしていてもぼくの下の名前を呼ぶことがなかったので、口が開いた。

「いつも、ここ、歩いてるんだ」

ぼくはすこし恥ずかしくて彼の目が見られなかった。きっと暴力的な、蔑んだ目をしていると思ったから。彼にはわかってもらえない気がした。小さな枯れ葉が、右足の前を緩やかに流れている。

不意に彼がこちら側へ近づいてきて、池の中に足を突っ込んだので、ぼくほそれはびっくりして後ろ手に池に落ちてしまった。

「うあ」

声にならない声を発したぼくは、腰辺りまで濡れてしまった、暑い日差しと池の緑色の生臭さと溺れてしまうかもしれない焦りで、ぼくは精一杯だった。少し水を飲んでしまった。

急いで右の尻ポケットに入ってるスマホを取り出した。一通り焦り終えると池の浅さに気づいて、さっきまで溺れてしまうかもとまで思った自分に勝手に恥ずかしくなった。濡れてしまったしもう仕方ないや、とゆっくり陸へ上った。

「どうしよっか……それ」

「どうしよっか……じゃないよ!ああ!」

大きく息を吸って吐き、ぼくは水が出るところを探した。敏感にそれに気づいた彼に案内してもらって、とりあえずスマホだけでもきれいにしようと洗ってみる。多分中に水が入っちゃいけないだろうと思って、もうどっちにせよ変わらないだろとも思いつつも、手で水を経由させながら慎重にスマホを洗った。そして、思い切りスマホを振って中の水を切るのを繰り返した。

こういう却ってどうしようもないとき、ぼくは状況の物珍しさで少し嬉しくなってしまう癖がある。だから、スマホの中から水を切ることにちょっとだけ楽しさを覚えていた。考えることを放棄しているんだと思う。

斎藤くんはけらけら笑っていた。けたけたといったほうが良いかもしれない。彼だって水に足を突っ込んでいるのに、そんなことは一切お構いなしに、何日も天日干しした木の角材同士を叩きあったような、そんな高く軽い笑い声だった。

「ごめっ」

彼はちょっと首をすくめて短く謝った。2.5文字の謝罪だった。どうしてこんなにも似合うのか、ちっとも申し訳無さそうじゃないのに、ぼくは彼のことを怒る気にはなれなかった。それどころかむしろ嬉しかった。彼とはあんまり話したことがなかったし、ちょっと憧れがあったからだ。

彼は健康的に日に焼けていた。別に日焼けサロンとかに行っている人ではないと思うから、単に外に出ているのが好きなだけなんだと思う。一方ぼくは散歩の時間以外は家でお気に入りの本を読むかぼーっとしているだけだから、動き回る彼をどこかで羨ましいなと思ったりしていた。

小学生の時に決まって読んでいたあの小説の主人公、タキという猫と似てる状況だ、と不意に思った。

その小説は、4年生から6年生の読書感想文の本にするぐらい好きだった。本を選ぶのが面倒というのがなかったと言うと嘘になるけれど、毎年書いていくうちにどんどんぼくだけの小説になっていったのが嬉しかった。

タキはいつもたむろしていた公園、空き地を追われてしまう。多分工事かなんかだったと思う。それでタキは安住の地を求めて旅するわけなんだけれど、そこでカラスと戦って、途中で川に落ちてしまう。俗に言うゴミ捨て場の戦いというやつだ。

ぼくはタキと違って身軽ではないからこんなにも濡れてしまったわけだけれど、彼女はなめらかな身のこなしで斜めのコンクリートを自由自在に駆け巡ったのだ。

「ほら」

いつのまにか斎藤くんがコンビニで3個入のポケットタオルを買ってきてくれて、それと水も一緒に渡してくれた。彼の指はカサカサしていて、爪はきれいに切りそろえられていた。

「ありがとう」

ぼくはありがたく、その茶色のフェイスタオルを受け取って濡れている身体をまんべんなく拭いた。濡れてへばりつく気持ち悪さよりむしろ服の重さのほうが気になる。ところどころに土や草がへばりついていて、それを一つひとつ取り除いていると、

「あそこでなにしてたの?」

と斎藤くんが聞いてきた。ぼくは答えに窮した。特に意味はなかったし、意味がなく変なやつだとは思われたくなかった。

「それより、なんでいきなりこっち来たんだよ」

「ん、なんとなく?」

彼はぽーんと高くボールを投げるように、水色の言葉をこちらへ投げてきた。でも、ぶつける気はない。肩も回さずぽんっと、あくまでも自然に発した言葉だった。

ぼくはいろんな行動に重苦しく考えてしまいがちであるので、彼のこの軽さが新鮮だった。彼は本当に何も考えずに池に突っ込んだみたいだった。水色の言葉は放物線を描いて、波すら立っていなかったあの静寂の水面に飛沫を立てながら飛び込んだ。

斎藤くんと住んでいる地域が近いことはぼくにとってあまり馴染みがなかった。どういう味がするのかわからない、赤く濁った異国の果実酒のような、知らなさすぎてちょっと不気味ですらあるような事実だった。

「住んでる場所とかあんまり話したことなかったな〜」

彼の話し方はなんというか、話しかけるでもなく独り言でもなくその中間のような気がする。こちらに向き合って紙包みを渡すのではなく、ぼくと彼とが一緒にいる部屋のこたつの上に、「よかったらこれ食べてってよ」とちんすこうのお土産の紙箱を置く、そんな感じで言葉を置いていった。ふわふわとした空気の塊を練って、膨らませて、いつの間にか彼の話している空気はぼくたちを包み込むのである。

今までゼミで彼と近くにいると、少し居心地の悪さを感じていた。輪の中に入っているのか入っていないのか分からなかった。ぼくはこの輪の中に入って良いのだろうか。考え込んでしまって、斎藤くんの目を見つめ、有田さんの目を見つめ、結局言葉を発する事ができないでいた。

「こんな近くに住んでたんだね」

ゼミではぼくたちは必要以上の言葉を交わさなかった、もっと正確に言えばぼくがあまり話さなかったということになるのだと思う。ぼくの言葉は固く縁取られて、額に入れられて始めてそこに飾られる類のものであって、彼みたいな雑草的な話し方はしてこなかった。

彼は日差しを浴びている。一方ぼくはアスファルトだ、と思う。

「うち、寄ってきなよ」

行く理由がないし断りたかった。だけれど、せっかくぼくたちの間にゼミとは関係のない糸が繋がったわけで、断ったら断ったで斎藤くんにその糸の暗い断面を見せつけるようになってしまうのも嫌だった。要するにぼくは彼と仲良くしてみたかった。

何より、外から見聞きして判断できる以上に彼は申し訳無さを感じているそうで、強く頼み込んできたのでぼくとしても断りきれなかった。点みたいな勢いのある人だなあ、と思った。

一通りボツボツとある土汚れも取りきった。スマホも起動できて、多分問題なさそうである。今はちょっと生臭いが気になるんだけど、それもいずれ消えて忘れてしまうだろう、と思う。

彼と本当に何でもない(相変わらず進まない進捗だったり、先輩が曲がった口でアドバイスをしてただの、いつもどおりの)話をしたり、濡れたズボンを絞っていたりしていたら、いつの間にか夕暮れになっていた。

するどい西日が目を刺す。目を細めて顔をあげると、世界が濡れて見えた。いつの間にかあめんぼはいなくなっていた。飛び石はたしかにそこに植え付けられていたけれど、いつもより植物のように見えた。根を深く張ってゆらゆらと揺れ、波を立てる。池が息を吹き返した。

彼は公園の真向かいに住んでいた。ぎゅっと小さな粒がつまったマンションだった。渋くて赤い、長いことのそのそと歩いてきてところどころ霞んで見えるような、年季の入った建物だ。きらきらと日の光に濡れて、エンジンみたいな情熱をちらつかせている。

心臓は大切なものだ。だからこそぼくは左から入ることにこだわりがある。ちょっとおおげさだけれど、異なる世界を受け入れるぞと自分に言い聞かせるために。タキが餌をくれる空き地の近くの加藤さんちの奥さんにお腹をみせるように。

だけど、このときは自然と右足から建物に入っていた。斎藤くんと歩いていると、変に考え込まずに居られる。自然と今までのぼくに割れ目が入って、今までは四角く身体を折り曲げて居たのが、伸びをできるようになる。今まで見ていたものは、もう少し広かったんだと思う。

風が強く吹いてすこし冷たい、けれど西日は温かい。ぼくは安心して、今までより気が大きくなっていると感じる。

青い扉がある。カランと鳴りそうでいて、触ってみると少し柔らかい。開けると、斎藤くんが普段生活している場所に出る。斎藤くんがマットをずらして、フローリングの部分を空けてくれた。靴を脱ぎ、汚れが最小限になるように慎重に右足をつく。

「右側に風呂場あるからさ」

踏みしめるたびに、バネのように水が出たり入ったりする。

他人の家の浴室に入ることは始めてだ。家では真っ暗なまま入るのが習慣となっていたので、柔らかくて発散するようなあたたかみに懐かしさを覚える。

「お湯ってどうやって出すの」

ドアをノックして大きな声を出して聞いた。

「給湯器の運転を入れて」

「どうすればいいの」

「壁についてるパネルみたいなやつ」

「ありがとう」

土はもう落ちていたので、ズボンと下着を手洗いした。ついでにシャワーを浴びる。ぼくの家のより細かい水が出るシャワーヘッドで、他人の浴室であることも相まってそわそわした。

浴室から上がって、予め買っておいた下着に着替えた。部屋に出ると、斎藤くんがテーブルにポテトチップスを出してくれていた。コンソメ味だ。

「なんかごめんね」

「いや、こちらこそ」

沈黙が横たわった。だけど、沈黙は地べたに頬杖をしている。居心地は良さそうだ。斎藤くんの部屋は一見乱雑に見える。研究のために印刷した紙が散らばっている。電子だけだと飽きるんだと言っていたけれど、本当に印刷していたのか。そういった色々な彼の生活の流れが、部屋に独特なうねりを作り出していた。

彼の横顔をちらりと見る。黙々と箸でポテチをつまみながら、資料をじっと見つめていた。

「そういえばさ、どうして池渡ってたの」

「なんとなく、いつもそうしてるんだ」

彼は驚くでもなく、ふーん、といったまま紙に視線を戻した。

「落ち着くんだ」

「でもなんとなくわかるわ」

それで会話は途切れた。けれど、途切れいてもいいなと思った。

気づくと脱水が終わる音がした。乾燥機はうちにないんだ、と謝られた。

「結局濡れたまま帰ることになって悪い」

彼は乾燥した手を擦り合わせた。

「こちらこそ申し訳ないよ」

彼はマンションの入り口まで送ってくれた。小さく手を振って別れた。

あたりはすっかり暗くなっている。後ろを振り返ると、まだ斎藤くんはそこに居て手を振ってくれた。直方体はまだそこに立っていて、大きい。だからぼくは見上げる。

ぼくは久しぶりに、他人の部屋に入った。小学校以来だろうか。直方体は思ったよりたしかにそこに建っていて、斎藤くんがたしかにそこに住んでいた。うねるように足跡をつけていた。

ぼくの街には、モザイクでできたマンションがいくつも建っている。そのそれぞれに入口があって、それぞれに自由奔放に開かれている。

しばらく歩いて、河川まで出る。新しく建てられた家がある。いずれここの庭にも猫が住み着くのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?