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味のする言葉で

味のある言葉で観察したい。
現実の息遣いを感じられるような、味を伴う言葉を使っていられるように、鋭敏に観ることができるようになりたい。いつも違う今という瞬間、ありのままの現象を見つめていたい。

味のする言葉は、生き物の息遣いが感じられる。言葉をぺりとめくったら、たしかに魂をそこに認められるような、そんな言葉だ。躍動感があり、いまにも溢れそうな現実を閉じ込められるような、過不足が少ない言葉遣い。

味のしない言葉を使うということは、古い瞬間にかかりきりになるということである。枯れた標本人間になるということだ。時間があっという間に過ぎたように感じる。全てを同じものと捉えるぐらい解像度が荒いので、振り返ったときに情報がないからだ。

味がしない言葉は、精神的な老いを招く。
老いが悪いことか?違う。老いは不可避で、それを受け入れることこそが味のする言葉を使うということだ。精神が老いることは悪いことか?わからない。私は、精神が老いることは悪いことだと思う。個人的な好みとして。身体感覚に比較的鋭敏な人は、魅力的だ。少なくとも、私はそういう人であるための努力をやめたくない。
味がしない言葉を使い続けるのは、変わる現実から目を背け、エネルギーを節約する行為であると言いたい。味がしないことに気づかないということであったとしてもだ。味が言葉に先行するべきだ。


身体感覚と言葉

味とは、身体感覚だ。言葉は、身体感覚=知覚を鋭敏にするためのものであるべきだ。
哲学は?思想は?抽象理論は?身体感覚に依って立っている。あなたも、どこかしらで文章の流れに嗅覚や直感が働いているはずだ。

文章を書くとき、無意識に身体感覚との相互作用を観察している。知覚に潜っていく。
どんな論理にも埋められない飛躍があるはず。こうだから、こう、としか言えない瞬間が。なぜ?を追求し切ることはできない。身体感覚が、「これならわかるだろ」で妥協させてくれる。「これ以上なぜ?の方向へ行くと不毛だな」みたいな感覚が。

言葉を使って、身体感覚を研ぎ澄ませる。言葉を使うのと、今までの言葉を脱ぎ捨てる、その両輪だ。言葉は身体感覚のためにあるべき。身体感覚を拡大するために、一旦その言葉にしておく。
言葉は書いた途端に命を失う。常に偽物で、書いた途端に現実から絶対的に離れてしまう。その意味では、全ての言葉は味がしないと言えてしまう。だが、言葉は足場になる。置いておくことができる。大まかな精度で、新たな空間を築くことができる。
モザイクを少しずつ減らす。クロッキーをする。アタリをとる。そういう言葉との旅をするのだ。0.1歩積み重ねる。

言葉は脳を安心させてくれる。壁ができる。暴力的な息遣いから、一つ距離を置くことができる。鮮烈すぎる身体感覚に対して「悲しみ」という情動と捉える事ができたりする。
鮮烈な感情のままの生が良いのでは?動物的な生き方。だが、人間にはそれが難しい。言葉を介して現実と触れ合っているから。
脳は、予測するために動いている。

重く尖って、ギラギラする感覚に潜っていく。言葉を置くことで得た安心をひとまず右手にある机に置き、恐怖の躍動へ身を任せ、目を開く。夢の中で出会うような、あの永遠に尖っている暗くぬらぬらした、鋭敏さを得る。それこそが、行動の精度が上がっていく。果汁のしたたる言葉を使って、感覚を研ぎ澄ませる。


言葉と空間

言葉で空間を作る。心理的距離を出す。良いアイデアは、心理的距離も必要とするそうだ。アイデアの要素同士の飛距離、それを言葉が生み出してくれる。言葉には、精神的空間が必要だ。

道を定め、環境を整えることで、蜘蛛の糸のように感覚を固める。言葉を減らすことによる集中ではない。
感覚に言葉を貼り付けて、感覚の暴力性を減らすことによる集中。そんな集中が、言葉と精神的空間によって生み出される。ヴィパッサナー瞑想。

言葉は空間を生み出す。発した途端に、その言葉は私ではない。すでに、今まで全ての言語の歴史が染み付いたものだ。私ではない。その利点。

距離を作るのは大切だ。思考や感情に飲み込まれて、身動きが取れなくなること、そして何も見えずに同じ場所で足踏みし続けること。涙で靴が滲んで見えることがたくさんあった。
行動を固めてしまうような瞬間がある。言葉が横から飛び出して来て、きらりと歯を見せ、親指を立てる!言葉によって、自分と距離を置くことができるのだ。
溢れ出た理想への渇望に距離をおき、まず何からできるだろうか?小さな、一番目の前の小さなことを思い出す。それが可能になる。

自分の感情に距離を取ることが好きだ。自分の理解が塗り替わること。常に新しく、いくら自分に聞いても怒られない。飽きない愉しみだ。知覚の解像度を高める努力を怠りたくない。


味を抑圧する言葉

ところで、言葉は他人のものでもある。身体感覚と乖離した言葉も、簡単に作ることができる。人を操り規定するために言葉が使える。広い意味でも、狭い意味でも。言葉を埋め込むことで、捉え方をその言葉に一旦とどめておくことができる。

父親は私に、不健全に強いべき論を埋め込んだ。
「宿題をするべきだ。宿題をしていない人間は、この家にいらない。誰が稼いでいると思っているんだ?」
「暇なのに、洗い物すらできないお前は楽しむ資格がない」
強い言葉と、暴力的な感情の奔流と、終わったあとの憑き物が落ちたかのような優しさによって、強い恥を植え付けることに成功したわけである。父親がまったくの優しい人間であると思うために、私自身が不健全に強いべき論を選択してきた。

自分でもべき論を選択してきた。
「健康でないのはだめなことだ。常に健康的であるべきだ」
これは、強く備わっているな。強く備わっているけれど、同時に身体感覚とは齟齬をきたしている。夜更かしをしてnoteを書いている。そういう齟齬が、私の脳を混乱させる。混乱が抵抗を、苦しみを生む。

身体感覚を先行し、言葉を置き去りにする必要がある。この言葉は、味がしないものか?味を抑圧し、誤魔化し、見えなくさせるものだろうか?

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