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自己分析 vol.18 言語化 引き算の自分

別マガジンに就活体験記シリーズがあるが、これらは自分の言語化能力を高めるためでもあった。

マガジン自己分析もこれを最終記事、集大成にしたい。

わたしは、1つのことから多くを考えてしまう謂わば受け取りすぎな性格。
変な話この特性は厄介で、小さい頃から七転八倒したし、よく働くことのが少ないのでは?とさえ思う。

一方でその正反対、全然考えられない人、全然受け取ることができない人もまた存在する。
当然是非はない話。

しかしこれだけは言えるなと思うのが、これは場数系の話。
つまり良いか悪いかは別に日頃から考える癖をつけて、考えたか考えていないか、みたいな話だと感じる。

昔数学はやればできると中学の同級生に言われた。わたしは凹凸激しい性格で、嫌なことはやらないので、要はやってないことを見抜かれての発言だと思う。

考えるや受け取るもこれ系で、近道や裏技はなく、日頃から考える、が最適解かつ最短距離かなと思っている。

同じような系統で苦手なのが、言語化。
考えた筋道や意図を何語でもいいので、言語に落とし込むこと。

言語の習得と別物だと思う。
何カ国語マスターしても言語化はさっぱりできないみたいな場合もあると感じる。

例えたらスニーカー(言語)をたくさん集めているのに箱庭でしか使わず履きこなせ(言語化)ていないイメージ。

言語化も日頃からコツコツが肝心なのでは、が個人的な意見。

わたしのように色々考える割に言語化下手、は苦労しやすい。

ミシンのボビンの下糸が絡まるイメージ。
(家庭科で苦労したのはわたしだけでないはず笑)

わたしもたくさん失敗し、たくさん誤って解釈され、たくさん泣き、たくさん後悔し、たくさん怒った。

言語化、は時間がかかるし、整理するのも大変。大きな理由の1つは気持ちは確認不能だから。
気持ちって2である3である、要素AとBが合わさっているみたいに数値とかでパキっと出ない。

音楽が好きなのはそういう個々の気持ちや考えが複雑に交差して絡み合い、混沌として整理しきれない不燃焼感含め、なんだかよくはわからないが不満である、を解消して寄り添ってくれるような気がしたから、も主因だと思う。

イヤホン依存族のわたしだったが、言語化をするようになって確かに前ほど音楽を聞かなくなった。

合理では片付けられないそれだと痛感する。
だからこそ深いし、だからこそ難しい。

けれど価値があると思う。

最後に、最近学んだ禅の考え方を引用したい。

座禅で向き合うのは引き算の自分、とのこと。

引き算の自分とは…?

例えば新しい環境で自己紹介をする時、大抵好きなもの、出身地、学校など情報を足していく。
それが足し算の自分。つまりその反対が引き算の自分。

しかし、禅にそれら情報、個人の属性は無関係で、座禅は引き算の末にある自分と向き合う時間とのこと。

無の自分に上下はない、競争もない、比べっこも偉いもすごいもない。
理由は当たり前だが全部引き算して無だから。

いきなり無の自分と言われても実感も湧かず自信が持てないかもしれない。

しかし、最早自信もいらない。それすら引き算するもの。

先日実際に座禅をして、無の自分と向き合うのは悪くないと感じた。
座禅より引き算の自分の話に感銘を受けてしまったくらい。

結局そういう考え方の場所もあるんですよと知るだけでかなり楽にはならないだろうか。

わたしは楽になった。
特に合理•実利主義で効率化を求めるわたしに必要な経験だったと痛切に感じた。

人と比べたり背負ったりしがちな日常だと思う。
因みにわたしは我ながら察しが良いから背負っている人はその背中で分かるタイプ。
答え合わせの機会がいつもあるわけではないが、大概大当たりではなくても外しはしない。
要は察す癖がついて場数を踏んでいるから、なんだけれども。

「引き算の自分」をおまじないに歩んでいきたいなと思った。


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