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私たちはもう、生まれながら舞台少女〜〜『舞台少女心得』を読む〜〜

1.はじめに

過去に、以下のようなツイートをしたことがある。

「私たちはもう舞台の上」に次ぐ劇場版のテーゼの一つに「私たちは舞台少女」があると考えているのですが、これが1stシングルのB面なのヤバすぎますよね
未来を見ていたのかと疑うレベル

https://x.com/nebou_June/status/1779152324159746372

しかし最近になって、こうした解釈が正しくないのではないかと考えるようになった。つまり、『舞台少女心得』の歌詞は劇場版のテーゼを見越した形で書かれたわけではなく、むしろ歌詞を読む「我々」の側の変容により、そのように歌詞が解釈されるようになったのではないか、と考えるようになったのである。

本稿では、対照的でありかつ類像的な『私たちはもう舞台の上』を補助線としながら、『舞台少女心得』の歌詞を読解し、それを通して、以上のようなプロセスを跡づけることを目指す。そしてその上で、そうしたプロセスが、劇場版それ自体のテーゼとも共鳴していることを論じる。

2.TVアニメの『舞台少女心得』

『舞台少女心得』の歌詞には、「舞台」という名前を冠した楽曲とは思えないほど、舞台的なモチーフが少ない。特にそれは、サビ以外の部分に顕著である。サビ以外の部分ではその代わりに、日常生活を想起させる描写が多く見られる。他方で、サビでは、「舞台少女」が舞台で演じている様を想起させるような歌詞が並んでいる。こうした構造は、『舞台少女心得』が、少なくとも歌詞が書かれた時点においては、「生活の全てを舞台へと収斂させる」楽曲として書かれた、ということである。より踏み込んで言えば、「日常の生活を通して舞台を理解する」楽曲であるとも言えるであろう。

こうした枠組みにおける「私たちは舞台少女」「生まれながら舞台少女」と言うのは、「演劇に魅力に取り憑かれた私たちは、演劇をして/と共に生きていくことを、最初から運命付けられていた」ということを意味している。

このことを最もよく表しているのが、TVアニメ第11話終盤の、シーンであろう。他の7人に「舞台で、待ってる」と声をかけられながら、華恋はひかりが幽閉されている「THEATRE」へと向かう。そこでBGMとして流れるのが『舞台少女心得ー幕間ー』である。学校という「日常」の場所から「舞台」へと導かれる過程が描かれ、「生活の全てを舞台へと収斂させていく」舞台少女としてのあり方が示される。

そこで少女たちが語る内容は、「舞台に生かされている」という趣旨の内容ばかりであり、このことは『舞台少女心得』が『Star Divine』のB面曲であったことを思い起こさせる。『Star Divine』が舞台の上での「聖」的なあり方を描いているのだとすれば、『舞台少女心得』は舞台の外での「俗」的な「あるべき姿」を描いていると考えられる。その意味での「心得」なのである。それは、「いつも」「どんなときも」守らなければいけないものであり、たどり着くべき「舞台女優=完成形」を目指す道半ばにある存在としての、「未完成な舞台少女」である。

以上のような解釈を自然に行うので、これを聞いている観客の我々は、「ここでの「私たち」は話し手と聞き手の両方を含む「包括的」なものではなく、「話し手の側」にいる人たちだけを含む「排他的」なものである」という形で『舞台少女心得』を聞く。「この曲は、彼女たちの曲であって、我々の曲ではない」と。

3.『私たちはもう舞台の上』と劇場版

以上のような『舞台少女心得』の解釈とは対照的に、『私たちはもう舞台の上』は、「私たち」に我々も含むのような響きがある。というのも、『私たちはもう舞台の上』は『舞台少女心得』とは逆に、「舞台を通して得たものを人生へと敷衍していく」楽曲として解釈されるからである。

『私たちはもう舞台の上』には、舞台的なモチーフが複数登場する。「折り目をつけた台本」「丁寧に合わす衣装」「ひとりにひとつの役」などがそれである。(楽曲にあるメタファーをほどくのは野暮かもしれないが)これらのモチーフに託されているのはそれぞれ、「馴染みのある記憶」「私にぴったりの未来」「それぞれが生きる人生」といったニュアンスであろう。こうして人生のパーツを舞台のモチーフで捉えることで、「舞台の考え方を通して人生を理解する」ような枠組みである。

そこでの「私たちはもう舞台の上」の「私たち」は観客まで含んだあらゆる人々であり、「もう舞台の上」とは「世界のあらゆる場所が舞台なのだから、原理的に常に舞台の上にいることしかあり得ない」という意味である。これはもちろん、劇場版のテーゼと呼応している。どこでどんな舞台に立とうと、また舞台に立っていなかろうと、過去の経験を全て燃やし尽くして未来への糧にして、再生産し続けなければならない。再生産し続けなければ朽ちて死んでいってしまう。『私たちはもう舞台の上』そうした「心構え」を説く楽曲なのである。

より抽象化して言えば、それは「人生」の楽曲なのであり、劇場版は「人生」の作品である。それが舞台を通して描かれているだけで、華恋たちと我々の間を隔てるものは、本質的には何もない。したがって、繰り返すようであるが、ここでの「私たち」とは、我々も含めたあらゆる人間を指しているのである。

4.『舞台少女心得』を再解釈する

ここに、『舞台少女心得』の再解釈の契機がある。すなわち、劇場版を観た後にこの楽曲を解釈すると、我々のことを歌っているようにも聞こえるのである。すなわち、『私たちはもう舞台の上』のような、「舞台の考え方を通して人生を理解する」という枠組みである。

その変化には、舞台的なモチーフが少ないことが関係している。演劇の道に生きる者以外にも適用できるようになっているのである。そしてその上で、劇場版を観た後には「舞台の考え方」がモチーフなどを示されなくてもすっかり理解されているために、舞台的なモチーフがなくとも「舞台的な考え方を通して人生を理解する」という枠組みが可能になっている。

そうした枠組みにおいて引き出される解釈は以下の通りである。「世界のあらゆる場所が舞台でありうるのであるから(=「世界は私たちの大きな舞台」)、「私たち」(=あらゆる人間)は、常に不可避的に(=「生まれながら」)舞台少女である。」2節における解釈とは異なり、ここでの「舞台少女」は完成形が存在しているわけではなく常に「未完成」であり続けるような、そしてそのことによってのみ枠づけられる存在である。したがって、ここでの「舞台少女」は演劇の道に生きている必要はなく、我々も(「舞台創造科」ではなく)「舞台少女」なのである。

こうした考え方を表しているのが、『舞台少女心得』がBGMとして流れるもう一つのシーンである。すなわち、劇場版における決起集会のシーンである。雨宮と眞井の両名が再生産されるシーンであり、このままでは朽ちて死んでゆくことが示されるシーンであり、降りるための塔を自らの手で立てるシーンである。ここでは、「演劇の道に生きる者」であるか否かの別を問わず(=B組も含んだ99期生全員が)自らの生に対して向き合う様子が、再生産を志向する様子が窺える。そして、そのシーンの最後、歌詞としては「世界は私たちの大きな舞台だから」に接続する形で、ワイルドスクリーンバロックが始まる。少女たちが死んだ自らと向き合い始める。劇場版においては、そうした契機を見せる楽曲として、『舞台少女心得』は描かれている。

5.「意味の変化」をどう解釈するか

以上の議論で、『舞台少女心得』の含意が、『私たちはもう舞台の上』(より広く捉えれば劇場版全体)を通して変化するプロセスを見た。これはどういうことなのか。最初の楽曲解釈が誤っていたのだろうか。単に楽曲の解釈が複数あるというだけのことなのだろうか。あるいはこのこと自体に何らかの含意があるのだろうか。

上に見た「意味の変化」をより抽象化してみれば、「同じテクストでも、その時置かれた読み手の状況によって引き出される解釈が異なりうる」ということである。さらにもう一段抽象化してみれば、「ある時点で経験されたことに対する意味づけが、その後の別の経験を踏まえて再解釈されることで、新たな意味が付加されたり意味が変容したりする」ということになる。これは言うまでもなく、「再生産」のことを示している。このような考え方は以下の記事に詳しいが、何度も聴きかえす/観かえす/読みかえす中で、解釈が変化していく、新たなイメージが付加されるということが、「再生産」の一側面であると考えられる。

そうであるとすれば、我々が上で見た「意味の変化」のプロセスこそ、「再生産」であると考えるべきであろう。すなわち、劇場版を観て、最初期の楽曲である『舞台少女心得』を改めて聴いた時に「「世界は私たちの大きな舞台だから」と言うのはそういうことだったのか!」と驚く。今までになかったような解釈を得る。そうした体験をした時に、私たちはすでに「再生産」を経験していたのではないか。「再生産」とは何かを考えるずっと前から、そうした経験をしていたのではないか。そういった感覚になる。

6.おわりに

本稿では、『私たちはもう舞台の上』を補助線として、『舞台少女心得』の歌詞の意味するところがいかに変容していったかについて論じた。そこには「日常生活から舞台へ」という矢印から「舞台から人生へ」という逆向きの矢印への変容が見られ、そうした変化はまさに「再生産」の営みであると指摘した。

劇場版に関わる複数の論が、「再生産」に収斂してしまっていることに違和感を抱きながら、本稿を執筆した。劇場版はそこだけに収斂されるべきではないという直観を抱きながら。それでも、いつかの未来の自分や他の人が、「再生産」へと収斂する解釈を乗り越えてくれる(=解釈を再生産してくれる)ことを願って、本稿の結びとする。


(記事に関して、思うところや新たな着想などあれば遠慮なく筆者(@nebou_June)にお聞かせください。)

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