あの頃のわくわくを忘れない。
Noteを始める。
初投稿。良い響き。
何かを始めるってわくわくする。
ふと思う。
このわくわく感、最近ちゃんと感じていたかな。
小学生のころとかって、新しいゲームが発売されただけで毎日がすごく輝いた。
確か僕が小学校3,4年生の頃に、ポケモンの金銀が発売された。
ゲームボーイカラーなんて、今のゲーム機と比べると「骨とう品かな?」みたいな感じなんだけど、あの初代ポケモンの白黒ドット絵がカラーになって、それだけで、もうテンションがぶちあがっていた。
カラーも今見ると全然鮮明じゃないんだけど、
「ピカチュウが黄色っぽい!草むらってこんなに緑なんだ!ちゃんと夜になると暗くなるし出てくるポケモンが変わる!」ってだけで、すごい楽しかった。
ゲームボーイカラーって、バックライト機能は無かったんだよね。だから暗闇ではゲームができない仕様だった。
夜8時には布団に入る小学生なりに、夜に出てくるポケモンを捕まえたくて、おこづかいで懐中電灯を買って布団の中でやったりしてた。ばれてないつもりだったんだけど、布団って全然遮光性ないから、暗い部屋で布団の内側が光ってるわけなんだよね。ちょいちょい母親に叱られて、なんでばれたんだ!?って思ったりしてたな。
ポケモンを熱く語ってしまったけど、別にとりわけポケモンが好きなわけではなくて。
伝えたかったのは、あのわくわく感。小学生の時に新発売のポケモンを買ってもらった、というだけで世界がキラキラした、あの感じ。それを表現したかった。
これって、ゲームが面白いってこともあるんだけど、それ以上に期待感を素直に持てていたんだと思う。ピュアっていうのは絶望の経験が少ないってことなのかもしれない。
「これ買ってもらってつまんなかったらどうしよう、全然やらなかったらどうしよう」、なんて微塵も考えてなかったもんな。
期待感と不安感は裏返しの感覚で、常に同居するものだと思うけど、あの頃は純粋な期待感だけで楽しむことができていた。
いまはどうだろう。
Noteはポケモンではないが、無限の可能性があるツールだと思う。
「すごい人気が出て、noteだけで生活できるようになるかもしれない。」とか
「noteきっかけで出版社に声をかけてもらって、大ベストセラー作家になるかもしれない。」とかね。
「石油王の心に刺さって、サポートで1億円くれるかもしれない。」とかもいいなあ。
希望や期待感を持てば、無限の可能性が目の前にあることに気づく。
その無限の可能性を抱えて、いま初めてのnoteを書いているんだ。
これはもう、楽しくないわけがないよね。
でもやっぱり大人になるにつれて、日々のわくわくって減ったなあと思う。
大人になるって、たくさんの失敗や挫折を経験することだからね。
だから、次に失敗しないためにはどうしたらいいかなって考えられると大人だなって感じ。
それでも、だからと言って、はじめましての時点で賢くならなくてもいいんじゃないかな。
「どうせ期待したってうまくいかなくて落ち込むんだ」とかね。考えちゃうけどね。
うまくいかなくても、それはそれでいいじゃん。
「はじめてのわくわく」とか「希望を持つこと」を、自分で先に摘み取っていたら、人生の意味が分からなくなる。
人生の意味とか考えちゃうときって、要は楽しくないんだよね。
賢くなって勝手に先を予測しちゃうから、自分でわくわくを摘み取ってブレーキをかけている。傷つかないための思考が、逆に人生から光を摘み取っているなんて、皮肉な話だよね。
馬鹿になれとは言わないし、実際に馬鹿になると不利益を被ることもあるから、賢い大人のままでもいい。だけど、「ああ自分は今わくわくを摘み取っているかもしれないな」と思うだけでわくわく感度が変わってこないかな。
実際、僕もそうなんだけど、大人になるほど役立つことを知って、余計なことも知って、純粋にわくわくするのは難しくなってくる。
心身が疲れ過ぎたりして何が楽しいのかわからなくなってくるっていうのもあるし。
だから、知識とか不安とかに埋もれてしまった「表面に出てこれないわくわく」に意識を向ける練習をするんだ。
そうすると、人生の意味?とかあんまりどうでも良くなる。
いまわくわくしている、それが生きてるってことでいいじゃん。
そんな感じ。
つまるところ、
僕は今とてもわくわくしている。
生きてるー!って感じ。
それを投稿して、それに付き合ってくれる人がいる。最高。
これからもわくわくしたいな。
長くなっちゃったけど、ここまで読んでくれた方ありがとう。
初note書くのとても楽しかった。
ただ読んでもらえるだけでうれしいです。 サポートしていただけたら、夜に美味しいアイスを食べます。 (とても感謝しながら)