1月28日:ハテニテ

早く寝たい。
YouTubeに果てはない。
ここには果てがある。

今、通っている大学の去年の入試の日が近づく。
1年前の今日は不安と覚悟に戦ってた。
「抱きしめてやりたい」とでも言いたいが、自分のことを抱きしめるなんて気色の悪いことは言えないし、見せられるもんじゃない。未来でそう思えているだけ、良かったのかもしれない。

1年前の今日は不安を背負いながら、何かと理由をつけて覚悟を身につけて明日に挑もうとしていた。

今年の今日は覚悟を背負いきれずに、何かと理由をつけて不安にして明日から逃げている。

歌が作れない。
陳腐なメロディラインしか、僕には無い。
詩もコードも十分。
リズムからなるメロディがお粗末。
お粗末どころじゃない。不燃ゴミの素。
いつの時代でも評価されないフォークシンガーの曲みたいな、「歌です」みたいな顔をしている。
フォークソングみたいだ。
1つ目から理想を組み立てる訳にも行かないが、もっと自然に会話の言葉を紡ぐように歌えれば言いのになと思う。
いつまでも理想の音楽の形がボヤける。
僕にとってここにいる意味や、理想は、憧れを形にすることや、自己表現の果てだと思う。でも、それが音楽の形にならない。始めた理由にしかならなくて、その先の僕の中をほじくり返せは誰かに影響されてここまで来ただけの人間がるだけだ。アイデンティティもくそもへったくれもない。人の音でしか理想を語れなくて、それを形にしてしまうと劣化になってしまって意味が無い。
相互作用ノハテトイウワタシ。
憧れを出したり、逆に捨て去ってギターに合わせて自分の中にあるものを出してみてると、納得し難いヘドロが生まれる。僕が、僕らが嫌悪する種類の音楽よりもっと程度の低いものが産まれてくる。

耐え難い現実だ。
これを待ってくれているメンバーもいる。
アイツらも多分呆れている。

それでも少しづつつ創り続ければ満足が生まれるかもしれない。誰かのための音じゃないのは、確実だ。俺が満足することでしか、ここには意味が無い。その先については今はわからない。自己表現の満足の音を。

呆れているメンバーも、ひとつのハードルになっている。
嫌悪する音楽はある程度までは一緒だ。でも、俺の好きな音楽まで嫌悪するところまで彼は来ていた。あの音は十分に俺の理想だ。それがダメならと不安になる。方向性の違いってやつだ。待ち構えてる。そんな彼を満足させる音楽というひとつのルールというか、ハードルを設けてしまった。「それは良くない」「俺のやりたい音楽をやる」と息巻いては、作り上げたものを認める。それと同時に、定義が曖昧な「嫌悪する音楽」を作り上げてないかと不安がハードルの位置を不明にしてしまう。
ハードルを上げたり下げたり消えたり、見えなくなったりするせいで、自身に求めるべき音楽の理想もわからない。常に今聞いている音楽に影響されているのか、出でくる音を変化させようとすると影響を受けたような、個性もオリジナリティもない陳腐なメロディが生まれる。

いや。。。
むりだよ。。。。

自分でさえ満足出来てないんだから。
自分で満足した物を「彼は満足してくれるだろうか」と思い、壊してしまいそうになる。壊れてしまいそうになる。

こう、言っているが僕は続ける。
もう知らない。
解散してもっかい作り始めたっていい。
世界は自分で作って自分で終わらせる。

これからの方針でも固めようと思う。

今のドラムとベースには一旦計画が白紙にすることを伝える。あの二人は音楽ジャンルが違いすぎる。
そして、もう1人のキーボードマンに熱烈ラブコールをする。「俺にはお前が必要だ!」ってことを。1曲目にする詩に必要である要素を込めている。そいつを口説く。
そのうえで、ドラムとベースにもう一度声かける。
音楽ジャンルは確かに違う。でも、実力は確かだ。
俺なんかより、知識も実力もある。
必要なエッセンスというか、一緒に音楽がやりたいってだけ。音楽の好みさえ一緒であれば、もっと良かった。まあ、仕方の無い。

バイトの予定が産まれたら、キーボードマンと飲みに行って口説く。

ラブコール。