陰謀論的思考:ミシェル・ヨーとアンブレラマン

なんとなく気になった話題。エマ・ストーンがアカデミー賞でアジア人差別的な振る舞いがあったのではないか。

これについて、差別的だったという人について「それは陰謀論的思考だ」と私の中で陰謀論的につながった考えを話していこうと思います。
つまり、
差別的振る舞いはなかったと結論づける私による、差別的だったとする人は陰謀論思考をしているに違いないという陰謀論思考でこじつけた駄話。

さて、まずは、そもそも人間はリスクや敵意を過剰に想定しがちというもの。
陰謀論本での導入部でかならず押さえられているところ。

『陰謀論入門』では、「偽陽性のエラー」と呼んでいた。
端的に言うと、危険を見過ごすよりは、危険があるに違いないと間違って想定するほうが生存に役立つということ。

草むらが動いたら、そこにライオンがいると想定したとき、正解だったら生き残る方策がとれるし、間違っていても何事もなく生き残れる。
草むらにはなにもないと想定したら、正解だったら生き残れるが、間違っていたら死ぬ。
つまりは、生存においては偽陽性の間違いを犯したほうが有利になる。

って、ことである行動を見た時、そこに悪意などがあると感じたほうが生存に有利になるわけだ。

そして、上記のアカデミー賞の話題を見ていて思い出したのは。

「アンブレラマン」

陰謀論定番ネタ、ケネディ暗殺に関するワード。
当日の映像を見ると、事件の日は快晴であったのに、傘をもった男がいて、不可解な動きをしているのだ。
この人物は暗殺に関わったに違いない。複数人犯行説を裏付ける証拠だ。
っていうやつ。

でも実は、彼の身元は特定されている。

『賢い人ほど騙される』によると。
アンブレラマンは、ただケネディ大統領の政策に批判的で、宥和政策の象徴(チェンバレンがどうのと結構長めの解説がつく)である傘を見せびらかしてケネディをからかおうとしただけ。
それを、快晴時の傘なんて怪しい、陰謀の証拠だと言う人がいる。(もちろん目立つ時点で陰謀としてお粗末な点には気づいていない)

私は思いました。
んなもん説明されなきゃわからんよ。

ミシェル・ヨーの振る舞いについても、説明されたらなるほどと思うけれど、説明されなきゃわからんよ、と思うわけです。

そして、少ない人が、偽陽性のエラーを起こして、無い悪意を見て取ってしまった。それがこのひと騒動なのかなあと思います。

それに、一度起こしたエラーを訂正させるのも難しい。

考えを改めるか、改める必要がないことを証明するかの選択を迫られると、ほとんどの人は証明すべく奔走する。

── ジョン・ケネス・ガルブレイス

ロバート・ダウニー・Jrの振る舞いについて、プレゼンターが多すぎとか、全員に対応できる時間はないとかフォローしても、キリアン・マーフィはこなしていたとか反論する人もいる。
個人的には、像を受け取るという動作はやりとりに一切カウントされないってのは納得できないのですが、一度見出した悪意はなかなか消しされないものです。

確かに授賞式は失敗の許されない舞台ではありますが、そこでのちょっとした伝わりにくい所作でここまで悪感情を見出して、SNSで場外乱闘するのはあまり健全とは言えないと思うわけです。


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