【回想】震災を伝える

 2014年のこと。季節は初夏だったと思う。
 新聞記者を志望し、リクルートスーツに身を包んだ私は、神戸新聞本社のとある一室に通され、男女2人の面接官と向き合っていた。
 そこで問われた一つの質問が、今でも忘れられずにいる。
 「来年の1月、阪神淡路大震災から20年を迎えます。弊社はこれまで震災報道を続けてきましたが、読者さんの中には『もういいんじゃないか。いつまで続けるんだ』とおっしゃる方もいまし、社内でも議論になります。野田さんは震災報道についてどうお考えですか」
 土地柄、時節柄を考えれば聞かれて当然のこの質問に、私はたぶん「続けるべき」と答えたが、中途半端な就職活動をしていた私には、その理由を明確には言えなかったような気がする。
 今の自分なら何と答えるだろう――

 1995年1月17日、兵庫県南部を中心に関西地方は巨大地震に見舞われた。
 6434人の犠牲者を出し、戦後としては未曽有の被害となった。
 両親の話によると、その日は会社員の父が出張に出る日で、2人ともいつもより早起きしていたらしい。
 奈良県は最大震度4。台所にいた母は大きな揺れを感じ、食器棚を押さえ、父は寝室で寝ていた2歳の私と生まれて半年ほどの妹の上に覆いかぶさるようにして、守ってくれたそうだ。
 父の身体の下ですやすや眠っていた私は、その日のことを何一つ覚えていない。なので、経験的にはこの震災を「知らない」世代になる。
 それでも小学校高学年になる頃には、阪神淡路大震災の惨禍を「知っている」ようになる。それと同時に、近いうちに起こると言われている南海トラフ地震を恐れるようになった。  

 私はなぜ、「知っている」ようになれたか。
 とある年明けの3学期。1月17日を迎える前に担任の先生が、「阪神淡路大震災の新聞記事の切り抜きを持ってきなさい」という宿題を出したのを覚えている。当時私の家では購読していなかったので、母方の実家の中日新聞のスクラップを持って行った。
 持ち寄った記事をみんなで模造紙に貼って、廊下に掲示したはずだ。
 また、学年に一人、発災当時は神戸市にいた被災者の女の子がいた。
 彼女が奈良に引っ越してきたのは震災の影響で、住んでいたアパートが全壊したらしい。
 青い屋根が崩れ落ち、跡形もなくひしゃげた建物の写真を学校に持ってきて、見せてくれたのをよく覚えている。
 幼心には、新聞記事を読んだり、テレビの映像を見るよりも、身近な友人に降りかかった災難を語りかけてくる写真の方が、“明日は我が身”と共感しやすかったのかもしれない。
 こうした経験をきっかけに私は「知っている」人となり、自然災害や防災、あるいは災害報道に人並みの興味を持つようになった。

 ――絶対伝えるべきなのだ。
 面接当時は「伝えるべき」という当たり前の答えで良いのか、という疑心暗鬼によって自信を持って答えられなかったが、絶対伝えるべきなのだ。
 「もういいんじゃないか。いつまで続けるんだ」という声もあるだろう。神戸の街は復興を遂げ、今や震災が落とした陰を見ることはない。そんな中で、いつまでも昔の話を伝承する必要があるのかという疑問を持つのも仕方ないと思う。
 しかし、だからこそ、なのだ。震災の傷跡は復旧、復興とともに癒えてゆく。心身の傷はそう簡単に癒えなくとも、やはり他者からは見えづらくなる。
 しばしば「震災は忘れた頃にやって来る」と言うが、「忘れた頃にやって来るから“大”震災になる」とも言えるのではないか。
 区切ってはいけない。震災に打ちひしがれ、そこから立ち上がった先人の経験を伝えることに「これでもう十分だ」という区切りはない。
 若い世代の「知らない」を「知っている」に変える伝えるという営みは、必ずやって来る次の震災を最小限の被害に抑え、そこから立ち上がる力を与えるはずだ。

 さて、2020年。阪神淡路大震災から四半世紀が経ったわけだが、私は幸い今もなお巨大地震を経験していない。
 東日本大震災の時も、奈良の実家にいた。大学受験の後期日程の結果が出るのを待ち、テレビを見ながらごろごろしていたのだ。ニュース速報で「宮城県で震度7」と見て、バネ仕掛けのおもちゃのように飛び起きたのは覚えているが、やはり経験的には「知らない」。
 来年2021年3月11日には、あの地震と津波、そして原発事故から10年の節目を迎える。
 この間私は、震災に関して様々なことを見聞きし、考えてきた。
 今の私は「知っている」。
 確かに伝える側にいる。