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記録する表現する


脳内整理のnoteです。

光栄にも、今年の5月から弊学写真部サークルの幹事長として活動させていただいております。



写真に対する価値観は人によって差があります。


美味しいご飯を食べて幸せになれた。
景色の良い場所に行った。
親しい人と遊んだ。


日常における"わずかな幸せ"を可視化し、いつでも見返せるように保管しておく。
"記録すること"を写真を撮る目的にする人はかなり多い印象です。

しかし彼らは"写真にお金をかけよう"とは行動しようとしません。理由はもちろん、"写真を撮ること"が目的ではないからです。

一方、写真を撮ることを"自己表現のツール"として捉える人もまた多い印象を持ちます。
彼らはクリエイターです。作品における独自性を重視し、表現することに専念します。

SNSに作品を投稿し、他者からの認知やレビュー(多くの場合それは肯定的である)を得ることで承認欲求を満たそうとするのも、現代らしい自己を肯定する一つの手段だと私は思います。

彼らは"写真を撮ること"を目的とし、それは彼らの行動の原動力にもなりうるのです。

相異なる両者の性質的にも、"写真が好き"という単純な言葉でさえ捉え方は多様化します。


うっかり雑な二項対立を構成してしまいました。

(前者) 記録のために写真を撮る人
(後者) 表現のために写真を撮る人



私の所属する写真部サークルには両者が共存しています。しかしこれまでは、後者に傾倒した運営方針により、多くの脱退者が出たのも事実です。

機材購入への同調圧力、専門的知識を必須とする部会、作品批判から生じた組織内の軋轢、、

組織的性格ゆえに"写真が上手い人"が組織の主導権を握る風潮があったのではないかとも推測しています。前者を見捨てた運営者、寄り添ったつもりでも寄り添いきれなかった運営者、苦悩があったのは僅かながら感じ取ることができます。

先代の運営方針にこれ以上文句をつけるつもりはないので省略します。

我々は両者の共存を目指し、一人でも多くの人が写真を通じて豊かな人間関係を構築できるような組織にしたいと考えています。(個人的見解)


しかし、共存の到達点が未知数なのも事実です。

共存は必要なのかという意見も耳にしました。

カメラに関する初歩的な部会運営を行ったところで、専門性を求める部員が満足できるかといえば難しいところです。

写真なんて一人でも撮れるのです。
私もそう思って入学当初は写真部の新歓に行きませんでした。しかし共通の趣味を持った仲間と話が通じることはとても嬉しいのです。

一般人よりも深いところから自らの作品を批評してくれる人がいる。そんな組織に私は居場所を感じたのだと思います。

私は後者寄りの人間です。
なので専門性の高い、"表現を共有する場"も開いてみたいです。

しかし、両者の価値観を上手くぶつけ合いながら、両者にとって良質な空間を模索していく必要があります。

幸いにも我々の代は両者が部の運営に積極的な関与をしてくれています。ボトムアップ型の性質をもった組織運営にシフトしたことも好材料となり、中立的な組織運営が実現できそうです。

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