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ネコと人間の八日間⑤

六日目、朝からネコは元気だった。ベッドの上を転げまわりイヤホンのコードに絡まって遊んでいた。食事を終えると遊び疲れたのか、ヨロヨロと押し入れに入っていって横になった。人間は今日、出かける用事が2件あって、のんびり寝ていてくれるのはありがたい。

1件目の用事を終え帰宅する。ネコはまだ疲れが残っているのか足を引きずるように歩いている。元気になったとはいえケガをしているのだ。しかもまだ体力のない生後1ヶ月ほどの子ネコだ。人間は少々先を急ぎすぎたなと反省し、エサを食べさせたあと、押し入れに戻っていくネコに、今日はゆっくり寝てなさいと声をかけてまた家を出た。

夜遅くに家に戻ると、ネコは仕事部屋の入り口に置いてあるトイレの中に座っていた。そこからは玄関が見える。寂しくてそこで人間の帰りを待っていたのだろうか。ちょっと申し訳なかったなとちゅ〜るを1本食べさせた。食べ終えるとネコは満足そうに眠りに落ちた。

翌朝、ネコは立ち上がれなかった。後ろ足が動かずダラリとしている。表情もうつろだった。動物病院で処方された薬は5日分で、それが昨日の朝で切れていた。痛み止めが配合されていたはずだから、薬を飲まないと痛みが出てしまうのかもしれない。食欲もないようでほとんど食べない。今日は日曜日で病院は休みだ。明日朝一番に病院へ行くことにする。ネコはすがるように人間の指を両手で握って眠りについた。

また朝がきた。容体はさらに悪化していた。起き上がれない。エサが食べられない。頼みの綱のちゅ〜るもひとなめしただけだった。
1週間ぶりに動物病院へ向かう。9時についた。休み明けだが空いていて順番は2番目だった。診察室に入りこの1週間の容体を伝えた。聞き終わると先生は
「これはケガじゃないね……FIPだ」
先生はネコの病気に関する分厚い本を開いて説明してくれた。そこには痛々しい姿のネコの写真が何枚も載っていた。(以下は獣医師からきいた話を素人の私が解釈した内容なので、事実と反する内容が含まれている可能性があります)

ネコにもコロナウイルスを原因とする感染症がある。猫コロナウイルスは弱毒性で感染しても症状は軽いが、体内で突然変異し強毒化することがあって、それがFIP(猫伝染性腹膜炎)だ。FIPは比較的幼いネコが発症することが多く、現れる症状はネコによってさまざまで、体が麻痺するという神経症状もよくある症状のひとつだ。確立された治療法や特効薬はなく、治療は非常に難しくて亡くなってしまうケースが多い。近年、特効薬ではないかといわれる薬が開発されたが、まだ正式承認されておらず入手はできない。ところが中国でその薬をコピーしたものがつくられていて、ネット経由で購入することができる。それを動物病院が購入して輸入しようとすると税関で引っかかってしまうのだが、個人輸入だとすり抜けて入手できるケースがある。金額は数十万円と高額で、背景には中国マフィアが絡んでいるという噂もあり、購入してもまともな薬が届くかどうかは怪しい。

説明をきいて人間は、近い将来ネコは死ぬのだなと思った。ショックを与えないよう気をつかってくれたのだろう、先生はそれをはっきりと口にはしなかったが、言葉の向こう側にそういうニュアンスを感じ取ってしまう。
人間は先生が提案してくれた方法で治療をお願いすることにした。このネコはまだ幼いので、成長して体力がつき免疫力が上がってくるまで炎症を抑える薬で病状を食い止め、時間稼ぎをするというものだ。それがどのくらいうまくいく可能性があるのかは聞かなかった。聞いても期待しているような数字ではないだろう。知らないかぎりは、可能性はうまくいくかいかないかの半分半分だ。
先生は笑ってしまうぐらい太い注射をネコの背中に刺した。中身はステロイドと抗生物質と栄養成分と聞いた気がする。注射が太いと思ったのは目の錯覚だったかもしれない。痛そうに少しだけよじったネコの体はあまりにも小さく細かったから。
診察室を出るときに、また明日注射を打ちにきてくださいと言われた。何日ぐらい通うことになるのかは聞かなかった。料金は2200円だった。

家に帰って改めてFIPについてインターネットで調べてみた。治療しなければ致死率は100%と表現している人もいた。発症してから亡くなるまでは平均9日という情報もあった。「FIPを治せます」と宣言する動物病院もいくつかあったが、治療費は数十万円から100万円を超えるケースもあった。本当に治るのなら決して高くないと思う人もいるのだろうが、人間は「値段が良心的」な今の動物病院で最後まで診てもらいたいと思った。それはお金だけの問題ではないような気がした。

もしこのままネコが亡くなるのだとしたら、さまざまな偶然を重ねてネコと人間を引き合わせたこの運命にはどんな理由があったのだろうか。人間がネコを拾ってから8日がたっていた。あのとき人間は「ネコに最後にうまいものを、たとえひと口でも食わせてやれば、少しは気分が晴れるような気がした」からネコを連れ帰った。もしかしたら、人間がネコを助けたのではなく、ネコが人間を助けようとしてくれていたのかもしれない。
「なあ、ごはん食べるか」
ネコは毛布の上に力なく横たわっていた。食欲はないようだった。なにかあげられるものはないだろうか。あたりを見回して動物病院の診察券が目にとまった。診察券にはカルテの番号と人間の苗字は書かれているが、名前の欄は空白だった。
人間は今日の診察の最後に、このネコがオスなのかメスなのか教えてほしいと先生にお願いしていた。ネコはオスだった。
名前は数日前からなんとなく考えていた。いつも暗くて狭いところで丸くなって寝ているから……人間はボールペンを手にとると、診察券の空欄に「かげまる」と書き込んだ。

「明日また病院行こうな、かげまる」

ネコは毛布の上で寝息をたてていた。


このお話はひとまずここまでです。このあとネコは奇跡的に回復するのですが、それはまたなんらかの形で書けたらと思っています。
かげまるは今、元気に過ごしています。

お気持ちだけで十分だと思っていますが、サポートされたくないわけではありません。むしろされたいです。