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貨幣の実体性 マネーフェティシズム 唯物論的貨幣観

  • 貨幣観の違い

  • 各貨幣論について

  • 主流派経済学、上位層にとっての貨幣とは

  • MMT、中間層にとっての貨幣とは

  • 下位層にとっての貨幣とは

  • 唯物論的貨幣観

  • 結びに、貨幣観は統一する必要はあるのか?

貨幣観のちがい

まず貨幣観という言葉を知っているだろうか。「貨幣というもの」をどのように捉えるかという議論をMMT、現代貨幣理論の論者はしたがる。ちなみに、私はMMT自体には特に反対もしていない。

各貨幣論について

まず、貨幣論には大きく分けて二種類ある。主流派経済学の商品貨幣論とMMTの信用貨幣論。両者の違いは、貨幣自体に価値があるかないかで「価値があるから流通手段として用いられる」とするのが商品貨幣論、「それ自体には価値はなく、価値の裏付けは信用」とするのが信用貨幣論で、財政出動に対する積極さやワイズスペディングへの態度が異なってくる。

商品貨幣論は貨幣数量説と言われ、「世の中の貨幣量が観測でき、そして、貨幣の価値はその量によって決まる」とする需要と供給のバランスで持って価格決定がなされる一般均衡理論をベースとした考えを元としている。そして、これが主流派経済学、またはリフレ派と呼ばれるグループの根幹にある考えだ。

主流派経済学、上位層にとっての貨幣とは

資本家、経済学者、政治家、財務官僚などが主流者経済学を支持する理由のきっかけは、単純に「大学教育が主流派経済学の体系を採用しているから」という程度のあろう。

加え、主流派経済学が自然科学的で実に格好がいいからだ。そして、主流派経済学が体系構築にあたって複雑怪奇な計算式を採用することで、庶民の感覚から乖離すればするほどに、自意識が満たされていき逃れがたくなるのだろう。

しかし、彼らの生活様式を眺めていくと、彼らにとってお金とは如何なる存在かという視点も欠かせなくなる。

機械的な上下動をし、マネーというものが動く法則性を数式で表現できるし、表現し理解したら権威になる世界に生きる人達は、為替や投資で稼ぎ、決算などで数万円の違いが気になる。お金で最大限その人の人となりが評価され、お金こそが人生の目的となる、お金の増減こそが実存となってしまった人達、すなわち、数字の上げ下げという虚構の構図に見えつつも、実に具体的にお金の増減と自己のアイデンティティーが結びついていてある種の妙な具体性を帯びてくるのがこの層だ。

故に、彼らは「お金なんか」と言って、政府に簡単に増やさせて流そさせようとするMMTとは決定的に相性が悪いのだ。

MMT、中間層にとっての貨幣とは

翻って、MMTを支持する人は中間層に多いが、この人たちはお金そのものは人生の目的ではない。彼ら自身がお金以外の価値観で自身を評価されることでそうなるのだろう。スポーツ選手や職人もこう言った価値観の人が多い。

この人達にとってお金とは必要あら稼げばいいもので、神経質に上下動を捉えるものではないとの認識がある。せいぜいがローンか株式くらいしか具体的なお金との接点がなく、貨幣そのものがフィクショナルな世界観と捉えている。

彼らの貨幣そのものへの価値観は社会科学的になり、社会科学的な世界観を構築するMMTと親和性が高くなるのだろう。

そのため、彼らは気軽に「お金なんか通貨発行権で」なんて言い方をする。

下位層にとっての貨幣とは

ここまで「お金にどれだけの価値を感じるか」でどの貨幣観と親和性があるかが見てきたのだが、では、貧困層や子供、低所得者層はどうかというと、一気に泥臭くお金を捉えだす実態がある。

子供の頃の一万円とは如何なる価値があったが記憶にあろうか?

子供の頃の一万円札など大変に貴重な一枚の紙であった。小さな買い物をして千円札に崩される瞬間など、軽い喪失感に襲われる思いであった。

何が言いたいかというと、お金を持ってない人にとってのお金は「価値そのものの体現である」ということ。すなわち、お金は「価値あるものと交換物」であり、お金を媒介にした浪漫やドラマ性を感じる層がお金を持ってない層である。

彼らとお金との関係性は実に人文科学的であり、言うなれば、毎日が小説や映画の題材になりかねないドラマツルギーがお金を媒介に発生していると言ってよい。

唯物論的貨幣観

社会科学的に捉えるのなら貨幣などフィクションに過ぎない。

が、自然科学的に捉えアイデンティティと深く結びついた層にとっては実存そのものとなり、一気に貨幣が実態を帯びてくる。そして、貨幣を生活の中で実感と共に過ごす層にとっては価値そのものを体現するモノそのものとなる。

ここに、両者の貨幣に対する価値観が浮き彫りになる。

結びに、貨幣観は統一する必要はあるのか?

貨幣に対する価値観がここまで異なるとおそらく会話は成立しない。階層によって貨幣そのものの流動性が全く異なる。流動性選好とはよく言ったもので、上位層にとって貨幣は流動性が高いからこそ上下動しやすく偏執的に追及し、下位層にとって貨幣は流動性そのものとなるからやはり異常に固執する。

最後に、両者は和解できるのかという疑問。

民主主義の国において和解は必要ない。積極財政を議決させればいいだけだから、理論で議論なんかするよりも、選挙戦略を練ったほうがいい。「ペンは剣より強し」とはいうが、「権はペンより強し」とも言える。

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