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壊れそうな我が家のはなし(7)

認知症のことを「多幸症」ともいうらしい。
それにしても、よく言ったもんだ。
つらいことは忘れてしまい、常に楽しそうだ。
父を見ると、つらい現実を記憶の中に沈殿させ、楽しいころの記憶が上澄みとなって残っているのがよくわかる。

父が少し「おかしく」なっていることに、家族が気づくよりも前の話。

両親には地元のクラッシック楽団で演奏する知り合いがいて、地元のコンサートホールでの公演チケットを手にしては、足を運ぶことがあった。行き始めたのは父がまだ現役のころだったので、特段の問題もなく聴きに行っては、帰宅後はその感動をいつまでも話していたが、同じことを聞かされる当時は独身の私と、まだ家にいた妹はかなりうんざりしていた。

母の話では、あるころから、開演中に喋ろうとするようになったらしい。迷惑な客だ。
父の感動を口にする姿は相も変わらずだったが、同時に、母から父に対する苦言・苦情を聞かされることも増えてきた。

ある日のコンサート。
何度も通った馴染みのホールでの終演後、トイレに行くと母とロビーで別れた父がいつまで経っても帰ってこなかったという。母がロビーで困り果てていたら、一人の女性が声をかけてきたという。
数年前に亡くなった父の妹・Mの末娘Yだった。末娘といっても、その時には私の妹より幾つか年下の彼女は既に結婚していて子供もおり、何度か家族での集まりに家族連れで来ることもあった。そのコンサートに、彼女も来ていたのだ。

おじちゃんはどうしたの?と母に声をかけてきた私の従妹Yに母が事情を説明していると、ようやく父が母の心配をよそに「おう」と手を振りながらやってきて、母はその場でどこに行ってたのか詰問したらしいが、父本人は、場所がわからなくてと笑いながら答えて、更に母を苛つかせたようだ。
そんなやり取りの最中に、そばにYがいることに気づいて、「おう、元気か」。更に「おかあさんは元気か?」と、既に亡くなっている叔母Mの様子を聞いたそうだ。
Yはちょっと驚いたようだったそうだが、元気よと答えたらしい。

Yと別れて、両親は帰路に。帰り道に父は「Yはきちんとご飯を食べられているだろうか」と心配していたらしい。母は、Yが結婚して夫も子供もいるんだから大丈夫だと答えたようで、父は安堵した様子だったらしいが、母は父の「おかしさ」をかなり確信したようだった。

私は覚えていないのだが、私が幼いころ、更に幼いYは何日間か我が家で預かっていたことがあるらしい。また詳細な事情はよく知らないのだが、すでにこの世にいない叔母・Mは、私の母に相談や頼み事らしきことをするときに、父の不在を確認してから我が家に来ていた。妹である叔母・Mにとって、厳格な兄である父はやはり怖い存在だったのだろうが、子どもの頃の私からすると、それは不審な行動であり、あまり関わりたくない対象だった。その延長線上に、以前書いた叔母Mの通夜の際に威張っていた父に対する恥ずかしさとか、その後に親戚が集まるときに家を空け、避けていた自分の行動がある。

この日、両親とばったり出会った従妹・Yの職業はケアマネージャー。とうに亡くなった自分の母親を「元気よ」と答えた彼女は、この時に父の状態がはっきりとわかったらしい。

私たち家族も、このころから、ここまでの色々な父の「おかしい」状態の「点」がようやく結びついて「線」になってきた。
学校での出来事、道が狭くなっていたといって付けた車の傷、通いなれた道に迷うこと、働いた先での度重なるトラブル。
あれだけ悲しんだ自分の妹の死まで忘れてしまったこと。

これは「認知症」というヤツではなかろうか。

少々の物忘れとは明らかに違う、記憶が抜け落ちたり混濁したりする「それ」を、説明する言葉が他にない。

しかし、病院嫌いの父を納得させて病院に行かせるのは難しい。まだ、病院に行くことをだまされるほどには怪しい状態ではなかったのだ。
やがて、運転免許証の更新時期になり、免許取り消しになるようになって、初めて「アルツハイマー型認知症」という病名が付いた。

点と点が結びついて、線となったころに病院に連れて行けば、進行は防げただろうか。

父が、確定診断が出た病院に併設されているショートケアで、線を引いたり、文字を書いたりする「ドリル」をするようになったころには、クラッシック音楽に興味を持つようなこともなく、表情もなくなっていった。母が一人でコンサートホールに連れて行くのも難しいし、開演中に何をしだすか分からないので、足は遠のいた。

両親にとっての楽しみな行事が、ひとつ減った。

(続く)

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