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壊れそうな我が家のはなし(14)

ドアノブにチェーンを付けて以降、アルツハイマー型認知症の実父が夜中に外に出てしまうことはなくなったが、玄関のほうからするガチャガチャいう音で目が覚めることは増えた。

眠りの浅い夫が最初に気づき、私を起こすのがいつものことで、階下に降りると、夫とほぼ同じタイミングで気づいた実母が玄関で、パジャマからポロシャツに着替えた実父相手に、開けろ・開けないで言い争いを始めている。そこで実母の助太刀をする形になるわけだが、その日の実父はとにかく「外に出る」ことに執着していた。

理由を聞くと、とにかく外に行かなければとしか言わず、取り付く島もない。

力任せにチェーンを外そうとして、けがなどされてはたまらない。
玄関ドアの前に椅子を置き、チェーンを触れないようにその椅子にドカッと座って、寝るそぶりを見せてみた。

私は今日、ここで寝るから、父さんも布団で寝たら?

力づくで排除されたり、殴られたりしないだろうという自信があった。特に裏付けはないのだが、殴られないだろうと思っていた。それどころか「手を出せるもんなら、出してみろ」ぐらいの感情があった。負けるもんか。

玄関の椅子で寝たふりの娘を見ながら、実父はしばらくは怒りながら「親不孝」だとか「馬鹿者」だとか色々言っていたが、しばらくすると落ち着いたのか(理由を忘れたのか?)、黙って突っ立っていた。そこで実母が実父に部屋に戻るよう促すと、妙に素直にうなづいて、ふたりして部屋に戻っていった。

私はそれから少し時間をおいて、実父がポロシャツのまま床に就いているのを見届けて、階段を上った。
階段の上には夫が待っていた。
実父は、夫のことを認識できるが、こういう混乱状態の時には私や実母のことさえも分からないこともあるため、混乱に拍車がかからないよう、なるだけ、最後の手段として見守るだけにしてもらっており、今回もその通りに、万が一、暴力沙汰になると出ていけるように待機していてくれていた。
おつかれさん、と声をかけられると、なんだかほっとした。

このころから実父は混乱を来し、私たち家族のことが分からないことが多くなってきていた。

ある日、仕事から帰宅すると、実父と実母が言い争っていた。
実母のことを、誰だかわからないということが発端だったようだ。最初はいつもの「家に帰る」だったらしいのだが、ついには「あんたのことは知らない」と言い出し、実母の感情が沸点に達したところに、私が帰宅した。
じゃあ、私は誰よ? と聞くと、「妹」とぶっきらぼうに答える。実父に妹は二人いるが、多分ケアマネをやっている従妹の亡き母であるMさんのことではない。もう一人の叔母・Nのことだ。あまり好きではない叔母だが、残念ながら私の容姿は歳を取るにつれてN叔母に似てきた。
ガッカリしながらも、それならば、この人は?と実母を指すと「知らない」。あんまりのことに、実母の顔を見られない。
「私は父さんの娘だが、この人は私の母さんで、父さんの奥さん」。
即座に「そんなことがあるか」と返される。
実母の旧姓を伝えると、その人なら知っていると言い、その人がこの人で、父さんの奥さんと伝えると「そんな失礼なことがあるか!」
実父は顔を赤くして怒り出し、自分の部屋に引きこもってしまった。

あぁ、もうダメかもしれない。
とうとう、私たちを忘れてしまった。
実母は目を赤くしながら、なんでこんなことに、と肩を落とす。
今日、ここにいたのは、実母と結婚前の、20代前半の実父だったようだった。

実父の認知症はこのころから、窓の外に日本兵を見せるようになった。
先の大戦の末期生まれの父の思い出に日本兵が出てくるとはあまり思えないので、何が影響しているかはわからない。しかし、その日本兵から逃げるために外に出ると言い出すことも増えた。

ある朝。
実母が私を呼ぶ声がした。
階下に降りると、玄関先で慌てる実母がいた。

壊れたダイヤル式の南京錠がぶら下がっているチェーン。

実父が力任せに南京錠を破壊して、家を出ていた。
早朝の空気もまだ冷たい3月だった。

(続く)

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