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欲深い海(SS)

 「お母さん、久しぶりに海に行かない」
 娘が突然言い出したのは、留学のため海外に発つ前日だった。

 私は海が大好きで、娘が小さい頃はよく近場の海に連れて行った。家から車で30分ほどの場所にあり、海水浴場も灯台もある子供の遊び場に最適な場所だった。犬を乗せて行き海岸沿いを散歩したり、夏は砂浜でお城を作ったり水着で海に入ったりもした。
 その影響か、娘も海が好きらしい。娘が大きくなり、友達と初めて自転車に乗って海に行ったと聞いた時は嬉しいような寂しいような気持ちになったものだ。
 しばらく娘とは行っていない。独身のころは1人でも海に行ったのだが、今ではたまに車で海沿いを走ったりする程度になってしまった。

 「風邪強いよ。本当に行くの」
 「せっかくだし砂浜まで行こうよ、波浸かろうよ」
 「あんた大学生でしょ。子供じゃないんだから」

 そうこう言いつつ、娘と2人波打ち際を歩くことになった。娘が小さかった頃のように素足で。

 「10年ぶりとか?お母さんと来るの」
 「そのくらい。砂浜ってこんなに歩きづらかったっけ」
 「そんなもんだって。そういえば前はよく転んだなぁ」

 1歩踏み出すたびに足が取られるような感覚に、自分の年を思い知る。娘はものともせずに歩いている。小さな頃は顔面に砂を付けて走り回っていたのに。

 娘を追いかけていたら、いつの間にか波に足が浸かっていた。押し寄せた波が足に当たり飛沫で服の裾が濡れる。寄る波返る波が美しき模様となって陽の反射に揺らめいている。懐かしい感覚に溢れていた。
 娘は砂の中に足を埋めて、波が来るのを待っている。子供の遊びのようだ。しかし、私には娘が味わおうとしている波の感覚がわかった。

 私はその感覚を「欲深い海」と呼んでいる。波が引くときに足の裏の砂が崩れると、砂ごと足が海に引きこまれるような感じがするのだ。貝や石や木を飲み込むように、波の届く限りのあらゆる物を少しずつ引き込んでいく海の引力は、満ちていながらまるで何かを渇望しているようだ。

 ちょうど、私の足裏の砂を波が攫って行った。この引力に、私は覚えがあった。


 三年前、娘が県外の大学に行きたいと言い出した時に私は猛反対した。娘は小さな頃から絵を描くことが大好きで、有名な美大に入って絵を学びたいと言った。学費や受験、生活費や今後の就職のことなど、考えることは山ほどあったが、結局私は娘と離れることが寂しかっただけだったと思う。どうにか娘を留めようとしたが、娘の希望は強く変わることはなかった。
 そんな時に、娘のスケッチブックを見つけてしまった。中は海のスケッチで埋まっていた。鉛筆でさっと描かれた波と飛沫の迫力、濃淡やハイライトで表現された透明感、望めないほど遠い海の輪郭を光る水平線があらわしていた。私は絵に関してのことはさっぱりわからなかったが、今まで見てきたどの絵、どの海よりも魅力的だった。目の奥がじわりと熱くなり、手が震えた。こんなに素敵な絵を描けるようになったんだね。

「私の絵をたくさんの人に見てもらいたい」

 娘の強く訴える目には、何か強い引力のようなものを感じた。


 「寒くなってきたね。そろそろ帰ろうか」
 「私、もうすこしだけ海見たいかも」
 「そう。じゃあお母さん先に車に戻ってるから。風邪ひかないうちに早くおいでね」
 「はーい」

 私は恐ろしい波につられぬよう、そっと離れたところで見守る。少し暮れてきた日は空をオレンジ色に変えていき、海はますます神秘的な色合いに光を反射させている。娘は果てしない海の向こうを眺めていた。娘のみつめている世界はどれほど遠く、どれほど綺麗なのだろう。

 明日海の向こうへ行く娘は、この世の中で最も気高く美しかった。



小説のようなものを書いてみました。
完全なるフィクションです。
子を想う母、母に思わせる子の強さへの憧れなどをもとにしています。

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