いとおかし、いとおかし13 制作過程2
講談・落語への展開
速記本への道ー読者の誕生
明治期には「速記」が入り、口話が記録されることとなった。中でものちに「話芸」と概念化される講釈・落語や、演説・講話・説教法話などが、さかんに記録され、活版印刷技術の定着によって出版される。
「文明開化」の名の下に、活字本が世にあふれ出す。明治出版ブームである。のちに文芸がさかんになるのも、これが寄与する。
しかしそれは、江戸期の漢学・和学の蓄積と「寺子屋」に代表される識字への意欲、そして学制による学校教育の進展で、「読み書き」ができる大衆が潜在的に形成されていたことによるのです。
早くも元禄期の「浮世草子」に代表されるように、江戸期の読書欲は広い階層に及んでいて、文書主義による統治とあいまって、武家町人に「インテリ」を育てていきます。
平安期から「勲功賞与」のために記録されていた軍功書をもとに、仏教伝道の説教唱導されたものが生まれ、鎌倉室町で「武士の誉れ」と「戦術書」としてまとめられた「軍記」が生まれ、その解説が好まれます。
これらは御伽衆といわれる、説教僧を中心とした「話し上手」が大名やその家臣に語り聞かせて、武士の教養とする文化に発展。
しかし、戦国が終わり、江戸期に入ると「歴史意識」や「仏教への関心」の高まりから、第一次出版ブームがおきて、識字層のニースにこたえつつ町人や富農という新しい読者を育てます。
神寺境内での祭礼法会や、年中行事の道すがら、辻講釈が流行しやがて、講釈場をかまえて客を集めるという「興行」形態にまで発展する。これらから、浄瑠璃や歌舞伎、そして能狂言や説経節、座敷芸としての落とし噺や辻芸としての落語などが一斉に花が咲く。元禄文化です。
軍書講釈の赤松法印から、志道軒、そして馬場文耕など、僧侶上がりの講釈師が人気を博し、三都では徐々に娯楽化します。同時期、寺請制度が機能しはじめて仏書の出版とともに、説教唱導もまた隆盛をむかえていきます。
こうして、江戸中期に育った町人による、「耳学問」が伝統となり、「石門心学」や「真宗説教」などの「法座講座」、そして「寄席興行」と、人々が「聞きにいく」ことが娯楽であり学びになっていくのです。
これらが、「新しい読者層」となりますと、江戸中後期の第二次出版ブームへとつながります。
落語と噺本の隆盛
いわゆる「噺本」は江戸中後期に多数出版されます。また、菅原智洞や粟津義圭など、著名な説教名人の説教も次々と版を重ねます。けれども、「講釈本」はほとんど見受けられません。
なぜなら、元々「軍書読み」であるから、元ネタは別途存在します。また、オリジナルなものを世話物として起しても、講釈自体が長丁場なため木版印刷には向かないのです。
その点、落とし噺は秘湯一つが短いので、まとめても長さは知れている。そこで、読本としてはこちらに出版が集中するのです。
一方講釈としては、むしろ学問書として「軍記講釈」「四書講釈」「神道講釈」が出版されます。講釈師は芸人ではなく、武道や儒学に神学を語るものとして、格式を誇るので、天保の改革でも「芸能」とはされません。庶民教化の教養、として扱われます。
「茶碗屋敷」の速記本
さて、速記が入り口演が速記されますと、娯楽本としてはまず落語がその対象となります。管見では、江戸期の講釈本、明治期の速記本にて、講談師の「茶碗屋敷」は見当たりません。
初出は、『茶碗屋敷』 春錦亭柳桜口演 青山浅次郎速記
明治24年5月30日三友舎。
元は『花筐』13号(明治23年4月4日 金泉堂)、14号(同 4月21日 同)に連載されたもの。
『花筐』は、演芸速記雑誌。研究では、速記雑誌で大当たりをとった『百花園』に刺激されて発行された、後発本です。円朝の速記もあり、明治期の口語研究にもなる貴重資料で、編集発行は大原武雄、明治22年に創刊され月二回発行で、23年7月終わった模様。
春錦亭柳桜(しゅんきんていりゅうおう)は、三代目麗々亭 柳橋(れいれいてい りゅうきょう)。文政9(1826)年生まれ。明治27(1894年)寂、である。本名∶斉藤文吉。長男は落語家四代目麗々亭柳橋、次男は講談師二代目桃川如燕、三男は落語家五代目麗々亭柳橋という芸人一家をなします。
二代目麗々亭柳橋の門で、1851年三代目麗々亭柳橋襲名。1875年初代三遊亭圓朝、六代目桂文治などと共に「落語睦連」を結成し頭取に就任した実力者です。1883年頃に初代春錦亭柳桜と改名し隠居生活に入り、弟子に稽古をつけた。名前の由来は古今和歌集の『見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける』の一節から
内容は、以下。現物を読んでいただく方がいい。
あたまはいわゆる「引き事」で「マクラ」にあたります。
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