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いとおかし10 扇屋のピンチ 


久しぶりに「note」にかえってきました。

伝承の中で埋もれているおもしろいお話を、紹介しております。

さて本日は、私の先達でもあった漢文学者の白川静先生の17回忌にちなんで、先生がお好きであった「そとうば」のお話をいたしましょう。


扇屋のピンチ

「そとうば」って

「そとうば」と聞かれて何を思い浮かべますでしょうか?「卒塔婆」なら、お墓に立っているものですね。これは、おシャカ様の遺骨を祭った塔、「ストゥーパ」に由来するコトバです。仏舎利塔と訳します。

おシャカ様が涅槃に入られた後、その生前をしのび教えをうけつぐ場所として、ストゥーパがつくられそこで口承伝承されたおシャカさまコトバを仏弟子たちが、暗唱しました。

そのあと、お墓参りとして集まった一般大衆に、その教えをなおかみ砕いてたとえ話をいれながら解説したのが、「説法」の始まりです。

この塔が大きくはお寺の「五重塔」となり、小さくは石塔墓や木の立て札になりました。

インド・ストゥーパ
卒塔婆


唐宋八大家 

しかし、江戸時代の知識人に「そとうば」といいますと、あああの「名文家」ですね、とおっしゃるでしょう。そうです。「蘇東坡」とは、中国の政治家であり文学者であります。北宋といいますから、11世紀の中国の四川に生まれた人。日本でも流行します、対句や美辞麗句を使った修飾的な美文に対して、率直な表現である「古文」を書かれたとして、のちの文筆家に「唐宋八大家」として大きく評価された人なのです。
 
 蘇軾(そしょく)がその名で、東坡居士と号したので蘇東坡と通称されるようになりました。政治家としてもよくできた人で、地方官として公正な行政司法を行い、中央政界に入ります。思想的は老荘と仏教の禅に親しみ、養生法を行い平静を尊ぶという人であったようです。
 しかし、中央官人としては不遇で、2000年以上も昔の「周」を理想とするアナクロな政治改革運動にまきこまれ、それに反対したために、二度も流罪にあっています。最後の流罪では現在の海南島まで追いやられていますが、節は曲げずそれはそれで受け入れて生きられたようです。
 
さて、この蘇東坡先生が、杭州にいらっしゃった頃のことでしょうか。中央から派遣された官人として大官・司法官であられたころのお話です。

訴えられた扇屋 

あるとき織物業者から訴えがありました。何でも絹の扇をつくるとして、絹反物を売ったのに、扇屋がその代金を払わないというのです。その額二万銭、20貫文となります。絹反物で20匹以上になり、1匹は四丈、およそ9.4m分。相当な量です。今の日本では、安くなったとはいえ、20万円から30万円。当時でもで米一石に相当します。一年分の食費ですね。この時代には折りたためる「扇」はまだなく、扇とはとは夏の暑気払いにつかう〈うちわ〉のことです。
 そこでくだんの扇屋を呼び出されて事情をお聞きになりました。扇屋は、
「私の家族は〈うちわ〉を作ることを生業としてきました。ところが、たまたま父が亡くなり商売の仕方もわからないままに私があとをつぎました。しかるに、この春から雨が降り続き、夏とはいえ寒気が強くてせっかく作った〈うちわ〉がまったく売れないのです。私がわざと払えないのではなく、お金がないのです。」
というのです。これを聞いて蘇東坡は、しばらく扇屋を見つめて考えておられました。
 さて、蘇東坡先生はどうなさったのでしょうか?
 

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