記憶の中の建築群
既存の小説の二行を冒頭と末尾にお題として貸して頂いて小説を書くサークルにいた頃 「猫の建築家」 著:森博嗣 がお題となったことがありました。
作品の一部をそのまま、というのには抵抗があるので、ほとんど書き替えるか「引用」という形でそのまま使うか という形で参加してきました。
題名の「猫」に惹かれ ネットで本を買って読んだ後の創作です。
内容は全然関係ないけれど。
読んだことの無い本に出合える、そういういい点もあったと思います。
懐かしい一作です。
◆記憶の中の建築群◆
『猫は建築家だった』
と ヒロオカタツミがつぶやいた。
康太先生の車で、その女子校へ行き、有名な外国人建築家が設計したという校舎を見て回った。
アーチ型のホールの入口や 壁や柱の細かな細工、渡り廊下の丸い窓、質素で温かみのある礼拝堂の木の扉。それらのひとつひとつを愛しむように目を細め眺めた後、ヒロオカタツミは続けて言った。
『何度か生まれ変わったけれど、そのたびに建築家になる』
小さくてかすれていて でも、深くその人の心のそこから響いてくるみたいな声。その声にどきりとしたことを 私は一瞬のうちに打ち消す。
──ふんっ なに?解ってもないくせに。知らないじゃない。入って来ないでよ。なに、それ。
康太先生の脇をつっついて
「それ、言うならさ、『あるときは ねこは建築家のねこでした。ねこは建築家なんて きらいでした』だよ、ねぇ」
そう言って 私は余裕かましてクスリと笑うつもりだった。でも、ただ頬が引きつっただけで 笑いにはほど遠いゆがんだ顔になっただけだった。
そうだ、解っていないのは こっちだったのだ。
*
「こいつは大学が一緒のヒロオカ タツミ」
康太先生が電話で、一緒に行こうと誘っているのを聞いている間 もちろん「タツミ」なんて名前、女の名前じゃない、苗字に違いないと思っていた。でも紹介された「タツミ」を見て、私の予想が大きく外れていたことに驚いた。自宅の玄関先で私たちの迎えを待っていたのは 随分と整った顔立ちの男友達で、しかも車いすに乗った人だった。そして
「この子が塾の生徒の勝谷、勝谷夏帆。」
康太先生が私の名を言うと ヒロオカタツミは 一瞬きょとんとし、すぐに表情を崩して笑顔を見せると、言った。
「てっきりカツヤ君って男の子連れて来るんだと思ってた。ナツホちゃんね、そうかそうだよな、甲和女学院の見学が今日のツアーの『理由』だもんね、そもそも」
ヒロオカタツミは「理由」に力入れて そう言った。柔らかな笑顔とは裏腹に、声に冷たい棘のようなものを感じる。
── 気に入らない。
最初っから何でもお見通し、みたいな目でこちらを見るこのタツミという男が気に入らなかった。
康太先生が車いすのヒロオカタツミの身体を支え 車のシートに座らせた時からずっと 私はこの男が思い切り気にいらなかったんだ。
*
私の通う個別学習の塾で 渋谷康太は講師として働いている。
建築学科の大学生だということくらいしか、考えてみれば彼のプライベートを知らない。塾の決まりでいつも Yシャツにネクタイ姿なので、普段はどんな服を着て どんな音楽を聴いてるんだか、まったく想像がつかなかった。
大学生の渋谷康太。サークル活動する渋谷康太。誰かの息子の渋谷康太。
誰かの友達の渋谷康太。過去の…こどもの、中学生の、高校生の 渋谷康太。あんなだろうか、ううん こんな感じかな…
想像の中で渋谷康太はなかなか形にならず いつも私の手に届かない。
誰かの恋人の…そこで想像はストップする。そこだけは考えない。考えたくなかった。
高校受験用の夏期講習で追加した授業数のうち 康太先生の持つコマは意外と多かった。顔を合わす日が増えた分 幾分距離が縮まった気がした。
猫が生まれ変わる絵本の話は 国語の問題文の中のひとつにあり、繰り返しのコトバが妙に気に入って、事あるごとに色んな「誰か」に入れ替えるのが私と康太先生の間での遊びになった。
挿絵の猫はふてぶてしくて目つきがちょっと悪い。「この話で作者が何をいいたかったか」なんて問題は苦手だし大嫌いだったけれど 何より 康太先生と同じ遊びを共有していることが、そこに誰も入れないことが、私にはうれしかったのだ。
「あるとき ねこは 塾の講師のねこでした。ねこは塾の講師なんか きらいでした」
にやっと笑って 私が言う。
「あるとき ねこは女子中学生のねこでした。ねこは 女子中学生なんて だいきらいでした」
テキストを開き宿題をチェックしながら、鼻歌でも歌うみたいに康太先生が言う。
*
知らないのは 私の方だったのだ。
「『猫の建築家』…あれはいいよね」
プリントの入ったTシャツにジーンズ、黒いキャップを被った康太先生は 車椅子の「友達」の言葉に黙って頷いている。二人は同じ方向を向いたまま建物にずっと見入っていた。着て行く服を迷って選んだ自分が恥ずかしい程、普通っぽすぎる先生の服装に 私はちょっとがっかりしていた。
「こういう建物を見たら思ってしまうよなぁ。オレも何度生まれ変わっても 建築家になりたい」
康太先生よりヒロオカタツミの方がよくしゃべる。でも、答えを先生に求めてるというよりは 独りで勝手に言うから聞いていてもいいよ、そんな感じの物言いだった。
「生まれ変わって別のものになって記憶が消えていても、自分の造ったものに遭った時 何か自分に近いものだってこと 感じるのかな」
建物は確かにレトロなつくりでかっこいいとは思うけれど どこをどうそんなに感じ入って眺めたらいいのか よく解らない。生まれ変わった先のことなんて どうしてまたそんな話をここでするんだろう。取り残された気持ちで 数歩後ろで立ち止まる。
「学校なんてさ、行ってからまわりの人間がどうかとかさ、そっちの方が重要なんだけど」
わざとと声に出して言ってみた。
康太先生は気にも留めずに建物を見ていたのに、ヒロオカタツミはこちらを振り返った。幼い者を見るような優しげな笑顔。それがまた どうしようもなく私に向かって「負け」を宣言しているように思えて、カンに触る。
*
「先生 免許取れたの?」
やっとひとつ知ったプライバシーは 康太先生が学校と塾のバイトの合間に教習所通いをしていたことだった。
ふっともらしたそのことに 食いつかないわけがない。
「先生 教習所の先生に怒られた?試験通った?」
「今 何段階?車買うの?新車?」
少しずつ少しずつテキストの内容以外の話が増えるのがうれしかった。
受け持ちの授業が多い生徒への気安さもあってか、康太先生も授業の後先に、私が振る話に結構乗ってきてくれた。
「考えてる車はあるんだ」
「えーっ どんなのぉ?」
車の名前なんて聞いたって解らないけれど 興味あるふりをして先を促す。
車に乗ってまず行きたい様々な建築物についても、少しずつ教えてもらった。その中に母が薦める女子高の校舎もあるのを知り、是非見学に行きたい、母も一度学校を見に行きなさいと言っている、と言ってこの日にこぎつけたのだった。
*
「これは、オレは中には入れないよな」
「うーん、車椅子では危ないかもしれないなぁ、老朽化も酷いし階段もキツイ」
「いいよ オレなら。一度外観だけでも見てみたい。」
休憩に入った喫茶店でヒロオカタツミがパソコンを開き二人の好きな建築関係のサイトとやらを見始めた。
こっちにも見えるように 画面を向けてくれてはいるが、私はわざとそっぽを向いて水の入ったグラスをいじっていた。
「『いつか入れるようになるでしょうか?』」
ヒロオカタツミが言う。それはとても明るい声だったけれど 言葉の後の横顔は一瞬暗くて、今から泣き出すんじゃないかとさえ思えた。
「『内側ったって、別天地ってほどでもないよ』」
康太先生が返す。棒読みなので何かの引用だろうと想像はついた。
「『丘の上に、入りやすいヤツがあるから、見ておいで』」
ヒロオカタツミが笑いながら続けた。泣きだしそうな表情は見間違いだったのかもしれない。
康太先生と肩を寄せ合いながら同じ画面を見るヒロオカタツミの視線が、時折こちらに向く。きっとこの人は康太先生より気配りができる。周囲の微妙な空気に敏感だ。康太先生より今、私のイライラした気持ちに気づいている。…それがまたカチンときた。
最悪。コイツあたしに喧嘩売ってる。
頻繁に会話に出るのが、「猫の建築家」とかいう本のことなのはだんだん解った。ヒロオカタツミが私にも何の話か解るように時折フォローを入れながら話すからだ。そんな配慮が余計にもどかしい。優しいつもりなのかもしれないけど、全く余計なお世話。コイツ、結局は私をハミらせて面白がってるんだ。カッと頭に血が上り その後 スーッと身体が冷たくなるのを感じた。
──康太先生とべたべたすんな。
オトコのくせに。…車いすのくせに。
嫉妬という文字が浮かんでくる。自分でも馬鹿だと思う。解ってる。解ってるんだ。私はただの塾の生徒で、康太先生は私の志望校の建物を自分も見たいから、「学校見学」って理由つけて今日こうして連れて来てくれたのだ。
──個人的に生徒と外でなんか 会っていいのかしらね、渋谷先生。
娘より先生の心配をしている母の言葉が浮かんだ。
塾長にも許可取ったから、というのは私の嘘だ。
「ここ見に行きたいんだけど、勝谷はもう疲れたかな?」
いきなり康太先生が私に話を向けた。パソコンの画面には何だかボロボロの部屋が映し出されていた。色褪せた布張りの肘掛椅子が床に転がり、ガラスの破れた出窓から、すすけた色のタイルの床にうっすら日が差し込んでいる。元は大きなホテルで、今PCの画面に映る画像は ダンスホールだったという。
過ぎた日の人の気配ってあるんだろうか。がらんどうの部屋なのに 華やかに着飾った人たちがさっきまでいて、スッと消えたような、不思議な印象が残った。
「へぇ、廃墟とか?そういうのの愛好家っているんだよね?ねぇ、そこ何か出るの?幽霊とか?」
ここに魅かれる気持ちはそんな理由じゃない。自分でも解っていた。
懐かしい…って感じはさっき言ってた「生まれ変わる」って話に関係あるのかな、なんてふと思う。何だか私、影響されてるじゃん、と思うと余計腹立たしくて、興味のないフリをした。
「ここは廃墟愛好家のサイトじゃないよ、オカルト好きのでもない」
いつも穏やかな康太先生が珍しく語気を荒げ、嫌な顔をした。
ヒロオカタツミがそんな康太先生を横目で見ながら、くっくと笑った。
*
山道を車で行くと それだけでも十分気分は悪くなった。助手席のヒロオカタツミと先生は 私のことなんか忘れたみたいにずっと建物の話をしていた。
目的地に着くと ヒロオカタツミはやはり外観を眺めて待っていると言い、康太先生はカメラを持ち、ちょっと済まなさそうな顔をして、「立ち入り禁止」の立て札のある建物に侵入して行った。
「気分悪いし、車の中で待つ」
そう言ってぶすっとした表情を崩さないまま、私は一旦降りた車に戻る。
車のドアに手をかけながらふと 思う。
車の名前なんてやっぱり全然解らないけれど、先生の欲しかったこの車は
きっと車いすのヒロオカタツミをあちこちに連れて行くためのものだ。
「在り続けるものには それだけの理由がある、そう思わない?」
ずっと黙って建物を見ていたヒロオカタツミが、こっちを振り返り、まっすぐな目をして問いかけた。
── 何で 私にそんな話を振る?私は建築の良さなんて解らない、同じ本も読んでない、ただの馬鹿な中学生だよ。
返事をせず ちょっとにらみ返す。視線が顔から下に降り、ヒロオカタツミの車いすとその細い足に向いた。
「ナツホちゃんは正直だね」
ヒロオカタツミが陰りのない笑顔を見せて言った。
山の上は時折風が強くて ヒロオカタツミの茶色の髪がさらさら揺れた。広い空が夕焼け色に染まって、崩れかけたホテルの建物を少しずつシルエットに替えて行く。
「在り続ける理由」について、その風景が物語っているように思えた。
*
夏休みが終わると康太先生は塾の講師を辞めていた。個人面談で各講師のことに触れた塾長に「渋谷先生に車で学校見学に連れて行ってもらいました」と言ったせいなのかどうかは解らない。誰にも結局聞けないまま、中三の終わりまでその塾に通い 例の女子高に合格した。
そのままそこの女子大に進学して少し経った頃、私は久しぶりにヒロオカタツミに遭ったのだ。
「ナツホちゃん?へえ…もう大学生なんだ。何だか早いね」
電動の車いすを止め、話しかけてきたのは意外にもヒロオカタツミの方だった。
「あ…あの時はどうも」
何を話したらいいんだかよく解らない。あの日一日会ったきりの元中学生がよく解ったな、と正直驚いた。相手は随分痩せて、あの時より何だかまひが進んでいるように見えた。目線をどこにしたらよいか迷う。
「電動車いす使ってるんですね。あれから…」
康太先生は?と聞きかけて口ごもる。
「康太?うーん元気なんじゃないかな。あれからお互い学校も忙しくなってさ、大学出てからはちょっと疎遠かな」
意外な感じがした。先生はずっとこの人に付き添っていると、勝手に思っていた。
「やっぱり正直だね、あいかわらず」
ヒロオカタツミが勤めている設計事務所がすぐ近くにあり、気まずい空気を引きずったまま 何となく話の続きをそこですることになった。
「あの日 あいつが連れてきた君を見て、踏ん切りが着いたんだ」
ヒロオカタツミは器用に車いすで移動しながら、お茶を淹れてくれた。
小ぢんまりした、でも居心地の良さそうなオフィスだ。今日は皆出払っているとかで、今は私とヒロオカタツミの二人きりだ。、
デスクの傍に幾つか建物の写真がある。その中にあの日訪ねた学校とその後行った古いホテルの建物があるのに気づく。
「あいつがね、オレに内緒であのサイト創ってたの、解ってたんだ」
それはあの時一緒に見ていたサイトの話だった。お前が好みそうな建物が紹介されている、と康太先生がそのサイトを教えてくれたのだという。
「何で内緒なんかに…?」
「そうだね、何でかな」
ヒロオカタツミはマグカップに入れたお茶を啜りながら、上目遣いでこちらを見てゆっくり付け加えた。
「気遣いすぎるっていうかね、そういう男だったよね、あいつって」
「優しかったですよね、本当に」
そう、きっと誰にでも。
だから康太先生は色々見てきた場所や建物をこの人にも見せたくてサイトを創っていて、なのに自分の足で自由に行けることを、申し訳なく思ってたんだ。康太先生らしいや、と思った。でもそのことが逆に、この人を傷つけていたのかもしれない。
「本当に馬鹿だよな、とんでもないお人よし」
ヒロオカタツミはそう言って壁の写真を見る。建物の写真のそばに一枚だけ
人物の写った写真があった。古い建物をバックに、あの日の私と康太先生とヒロオカタツミが居た。
「ひとのためにあんな車買ってさ」
沈黙が続く。静か過ぎる部屋の中に換気扇の音だけが大きく聞こえる。
「この日踏ん切りがついた…っていいましたよね?」
「うん」
ヒロオカタツミはお茶のほとんど入ってないマグカップを両手で持ったまま、少しの間目を閉じた後 ゆっくりと話し始めた。
「ずっと思ってた。でも、認めたくなくて逃げてたんだな」
何を?何から?
聞いていいのか迷う。
「このまま友達として付き合い続けても、いつか康太が負担に思う。負担に思うってことであいつは自分を責めるかもしれない」
あいつはその内ちゃんと女の子と恋愛して結婚していく、あの日私を見て確信し、康太先生に甘えるのを辞める決意をしたのだと ヒロオカタツミは静かに笑って言った。そして
「君のこともとても大事に思ってたよ」
ヒロオカタツミはそうも言った。
「先生が塾を辞めたのは あの日出かけたことと関係あったんですか?」
── 私が先生と出かけたこと塾長に言ったせいなんですか?
ずっと気になっていたことだった。
「逆だよ」
ヒロオカタツミはまた笑う。皮肉も嫌味もない優しい目だ。
「辞めるって先に決めていたからキミを連れて出かけたんだよ」
あの日結局ずっとぶすっとしてた。傷つけられたと思って先生の背中をにらんでた、背伸びばかりしてたつまんない中学生。
*
お茶と話のお礼を言って ヒロオカタツミの事務所を出た。あの時見た夕焼けと同じような空が遠くの山の方に広がっている。
一通りの昔話をした後、ヒロオカタツミは、何だか背負い続けて来た重い荷物を全部下したとでもいうように、すっきりした濁りのない笑顔を見せた。その笑顔は今でもくっきり思い出すことができる。
── 残るものを造るまでオレ、時間があるかなぁ。
そう言って壁の写真を眺めたヒロオカタツミの細い手足を想う。
── 康太は今ここで頑張ってるよ。
あれから疎遠だなんて言いながら、ヒロオカタツミが見せてくれたのは 建築関係の雑誌の、海外からの現地リポートのページだった。康太先生の小さな顔写真とごく簡単なプロフィールが載っていた。出身地や家族構成、そんなことさえ結局私は知らないままだったんだなぁ…と今更ながら思う。
透明なデスクマットの下には何枚かポストカードが挟んであった。余白に感想を書きこんでいた、あれはきっと先生の字だ。
康太先生の照れたような笑顔や テキストをめくる指を思い出す。
建築の勉強をしてみようかなと思う。あの頃先生が観たいと言っていた場所に行ってみたい。
どこかであの二人と繋がって、私もいつか「在り続けたもの」にもう一度出会う。生まれ変わってもヒロオカタツミはまた絶対に建築家になるだろう。康太先生は世界中を巡り、私も自分の足で訪ねた先で、「いつかのヒロオカタツミ」が造ったものにきっと気づくのだ。ちゃんとそれを見つけるのだ。
─そんな風に少しだけでも、未来に確かなものがあると、嬉しい。
何度も何度も読み返したあの本の言葉をまねて 私は呟いてみる。
〈了〉
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