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マトリョーシカのくすり箱

文戯マガジン2020Winter号に掲載して頂いた一作です。

お題は「薬」。

◆ マトリョーシカのくすり箱◆


苦しい時は 水色のおくすり。さあ、落ち着いた。

勇気が出るように 赤いおくすり。お顔を上げて 胸張って。

寂しいときは黄色のおくすり。ほら、もう、笑っている。

*

学校の帰り道の脇に、小さな庭のあるおんぼろな木造の平屋がある。植え込みや軒下には猫が何匹も我が物顔で出入りし、年寄の犬が今やっと目が覚めたような顔をして窓から時折顔を覗かせる。

日南子が初めてその家のお婆さんに「おくすり」を貰ったのは引っ越して来てから一か月、なかなか馴染めない教室からこっそり逃げるようにして帰る、その途中だった。同じクラスの女子のグループの声が後ろに聞こえたので、気付かないふりをして速足になった。うっかり小さな段差に躓いて膝をつく。すり傷に血がにじむ。お喋りや笑い声がひとつ手前の道を曲がって遠ざかった。自分が情けなくてそのまましゃがんでいると、目つきの悪いぶちの猫がこっちをしばらく見つめ、振り返って誰かを呼ぶみたいに「ナー」と鳴いた。

「おや、珍しいお客さん」

庭の中から声がしてお婆さんが出て来た。勝手に想像していたよりずっと声の優しい小柄なお婆さんだ。小学生の悪ガキたちが「魔女」なんてはやし立てながら この家の前を走り抜けているのを見たけれど、そんな風じゃない。辛子色のスカーフを頭に巻いて、花の刺繍のブラウスとロングスカートエプロン、ちょっと赤らんだ鼻と頬は「魔女」というより、そう、「マトリョーシカ」を思い出させる。それも一番大きいのじゃなく、中の方の小さいの。

「あらあら、けがをしているわね。見せてごらん」

お婆さんは生垣の傍の鉢植えからトゲトゲのついた分厚い葉を一枚取って、

「アロエ、お薬よ。これを塗ったらどんな傷でもすぐに良くなっちゃう。その前に傷を洗ってね」

そう言って庭の隅の小さい洗い場まで日南子を連れて行き、「これも」とその葉っぱを手渡した。

ブリキのバケツとジョウロ。物干し台にはロープが掛けられていて白いタオルとシーツが風に揺れている。木製の台にレンガ色の植木鉢が幾つも並び白や薄紫の小さな花を咲かせていた。庭も家も随分年季が入っている感じがする。けれど光る蛇口は庭の緑を映し、泥を落とした庭仕事の道具は、きちんと揃えて木箱に収まっている。日南子が傷口を洗っているうちに、お婆さんは家の中から小さな手提げの箱を持って来ていた。促されて窓の下の木製の長いすに座ると、小箱の中から消毒液を出して傷をそっと拭いてくれた。お婆さんがアロエの葉っぱの両端を小刀で器用に落として開く。表面のくすんだ緑や硬いトゲからは想像もつかない瑞々しい透明のゼリーみたいな葉肉。

「アロエってね、こんな優しくて綺麗なものを隠しているのよ。素敵じゃない?」

日南子の目を覗き込むようにして微笑むと、お婆さんはそう言ってアロエを差し出した。


「一人で帰ってたの? この先の新しい住宅地の子ね」

半信半疑のまま申し訳程度に傷口にアロエを塗りながら、日南子はこくりと頷く。日南子の住む住宅地はまだ開発中で、建てかけの家や空き地も多い。

「あそこは大きな畑だったのよ。すっかり様子が変わってしまったけれど」

懐かしそうな、ちょっと寂しそうな目をして言うので、なんだか申し訳ないような気がした。

──ここがずっと畑のままで、家なんて建たなければ引っ越して来ることもなかったのに。

遠くまで続く畑と広い空を想像した。そこに居た鳥や虫たちは追い出されてどこに行ったんだろう。ぼんやりそんなことを考えていると、お婆さんはぽんと日南子の肩をたたき、

「傷はもう大丈夫。それよりあなたにはこっちが必要ね」

お婆さんはエプロンから小さな缶を取り出して振ると、中に入っていたものを、日南子の手のひらに載せた。

「あら三個、赤、水色、黄ね。上手い具合に」

「飴?」

「ふふ、これもおくすりよ」

「おくすり?」

そう、とお婆さんは頷くと 三色の「お薬」の効能を秘密の話を教えるように日南子の耳元でそっと囁き、悪戯そうな目をして笑うと付け加えて言った。

「信じることが一等、大事。」

あれから何度も何度も日南子はノートの隅にマトリョーシカの絵を描いている。からし色のスカーフと花の刺繍のブラウスはお婆さんと同じ。ほんとうにそっくりで頬が緩む。そうだ、お礼のカードを作って渡しに行こう。マトリョーシカのイラスト添えて。

カードは用意できたけれど外にチャイムは見当たらないし、勝手に玄関まで入るのは躊躇する。日南子はお婆さんが庭仕事をしていることに期待しながら毎日家に帰る。雨の日が続きやっと晴れた日の帰り道 お婆さんの声が聞こえた。手作りカードを手に庭を窺った。

「あ……」

驚いたのは先客が同じクラスの岩谷唯人だったからだ。ここは帰り道じゃないはずだ。見るとあのガーゼや消毒液の入った小箱とアロエの葉っぱが二人の傍にある。さっき教室でコイツと他の男子が喧嘩していたのを日南子は思い出す。唯人がこちらをちらと見た。目が合った。足がすくんだ。それでも勇気を奮い起こし、日南子はお婆さんの傍まで走って、カードを押し付けるように渡すと大急ぎで引き返した。慌てて帰る日南子の後ろ姿にお婆さんの「有難う。またおいでね」の声が聞こえた。

けれどその日からずっとお婆さんの姿を見かけない。暑くなってきたので外に出なくなったのかとも思ったけれど家は静まり返っている。この間は、窓の中で犬が弱々しくクウンと鳴いて片目を開けたけれど、少し前からその姿も消えた。犬の居た場所に日南子の創ったマトリョーシカの飛び出すポップアップカードが飾ってあった。

少しずつだけどクラスの子とお喋りできるようになれた。手前の曲がり角まで一緒に帰る友達も出来た。休みの日には友達に誘われて出かけたりもした。住宅地にも家が増え活気づき始めている、岩谷唯人とはまだ喋れていないけれど時々目が合う。短気で喧嘩っ早いけどただの乱暴者じゃなく、それなりに理由があるのも解るようになった。そんな報告も、日南子はできないままだ。

金木犀が香る。目の前をすうっと赤とんぼが飛ぶ。お婆さんの家のコスモスが揺れる庭に工事の車が入り、家が取り壊され始めている。日南子が驚いて眺めていると、生垣の隅に岩谷唯人がいるのに気が付いた。

「くすり箱の婆さんなら もう居ないぞ」

「居ないって?」

唯人は すぐには答えず、独り言みたいに言った。

「ここでぼんやりしゃがんでた」

指されたところを見ると 古びた犬小屋がそのまま残されている。

「あの犬も歳とってからはずっと家ン中で寝てたけど、婆さんには思い出深い小屋なんだって」

手作りらしい小屋はペンキが剥げ、プレートの名前も消えかかって読めない。

「あの子を見送ってやれて良かった、なんて言うんだ。独りぼっちにせずに済んだ、って」

返す言葉も見つからず黙って聞いていると、岩谷唯人はつづけた。

「自分は今から『ツイノスミカ』に行くんだって、荷物持って立ち上がったけどふらついてさ。歩いて駅まで行くんだっていうから自転車の後ろに座らせて、押して歩いた。軽かった。びっくりするくらい」

「お婆さんのことよく知ってたんだ」

「『くすり箱の婆さん』って俺は勝手に呼んでた」

岩谷唯人は壊されていく家を見たまま呟くように言った。

「まだ自転車に上手く乗れないちっちゃい頃、ここで転んで泣いたのが最初」

──アロエ塗ってくれた?『おくすり』もらった?

日南子の問いかけには答えず、岩谷唯人は独り言でも言うみたいに続ける。

「駅まで送ってくれたら後は自分で その『ツイノスミカ』だとかいうのに行く、でも、その前に食後の薬が飲みたいからって言ってさ、自転車停めてどこかで何か食べようって言うんだ。居てくれて有難う、何が食べたい?って」

唯人の下した両の手がぎゅっと握られる。

「ハンバーガー屋、行った。婆さんは『若い子と一緒に一度来てみたかったんだ』って嬉しそうに笑ってさ、でも一口食べただけで。『食後の薬は?』って聞いたら 持ってくるの忘れてたって、また笑うんだ」

見回しても猫たちはどこに行ったのか見当たらない。工事の音に驚いて逃げてしまったのかもしれない。

「行き先、詳しく聞かなかったの?」

「落ち着いたらきっと知らせるよって言った。あの女の子によろしくって。マトリョーシカの飛び出すカード、嬉しかった、大事にするって」

生垣の傍に目をやるとアロエの鉢が無造作に転がされているのが目に入った。

「これ、ひとつ貰って帰っていいかな」

日南子が言うと唯人は初めてくしゃっと泣きそうな笑顔を見せた。

「婆さん、きっと喜ぶ。大事に育ててたからな。家の近くで怪我した子供のためって」

重い鉢を持って、よたよたと日南子は歩く。足取りが重いのは鉢が重いからだけじゃない。日南子の後ろを 離れてゆっくり歩いていた唯人が、ポケットをごそごそ探ると中から何かを取り出した

「『食後の薬は忘れたけど、これはあるよ』って、婆さんがくれた」

振り返って見る。あの「おくすり」の缶だ。

「あの子にもちゃんとあげるんだよ、ってさ。ほら、手、出せ」

唯人が缶を振る。

「苦しい時は 水色。勇気が出るのが赤、だよね」

何色が出るかな、日南子は差し出した手のひらを見つめる。

「寂しいときのが黄色、か?でも、婆さんの言うの、時々違ってた」

「え、そうなの?」

「結構 適当なこと言う婆さんだったな」

唯人は何かお婆さんとのことを思い出し、くつくつと面白そうに笑う。少し心が軽くなった。

「すっげぇ。これって万能じゃん」

唯人が大きな声を出す。手のひらに転がり出たのは、どれも白地に色とりどりのラインの入った「おくすり」だった。

便りはきっと来る、希望と祈りを込めて「おくすり」を日南子はゆっくり味わった。



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