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たすけ舟の家


2020年3月発行の 文藝MAGAZINE文戯10 Spring
巻頭企画「気づいて、先輩!」掲載作品です。


◆たすけ舟の家◆

その家は「こども110番の家」だった。子供が身を護る時に、頼っていいという「助け舟」になる家だ。

小学校の行きかえり、そのプレートと「大須賀」という表札の並んだ玄関を見るたびに、私は少し立ち止まり、駆け込む自分を想像した。そこには優しいあの人が居て、「どうしたの?大丈夫?」と話を聞いてくれる。私が落ち着くのを待って、温かな飲み物を差し出してくれる。ゆったり流れる時間と安心できる空気、護られている実感を貰える、そんな場所を 私はずっと求めていた。

遠慮のない他の子たちは 用も無いのに「せんぱい、せんぱーい」と玄関先でよく声を掛けていた。玄関先に出て来る大須賀さんの奥さんは、いつも困ったような表情で恥ずかしそうに小さく手を振り返す。
学校で近隣の人と交流するという授業があって、この奥さんが教室に来たことがあった。「先輩」というのは緊張して縮こまり口ごもる彼女に代わって先生が言った言葉だ。
──ご夫婦とも地元育ちで 通った小学校も皆さんと同じ、ご夫婦共にこの小学校の「先輩」で、もちろん「人生の先輩」でもあり……

*

もう「こども」とは言えない私がその家に駆けこんでしまったのは 追って来る郁生から隠れるためだった。まさか実家の前で待っているなんて思わなかったのだ。

──結婚しても、上手くやれる自信がない。白紙に戻してほしい
繰り返すばかりの私に、郁生は根気よく理由を尋ねた。説明する言葉を見つけられず部屋を飛び出したものの行き場も思いつかない。とぼとぼと実家にたどり着いた時、門のところで親しげに母と話している郁生の姿を見てしまった。もう私の味方をする人はいないのだ…… そう思ってしまった。

郁生はいつも明るくて、前向きにものを考える人だ。責めるよりもただ戸惑う優しい恋人に、どこが不満なのか、何が不安なのかと問われ 私は自分の気持ちを説明することができなかった。郁生の見ている私は本当の私だろうか、疑問は急速に不安となって広がりだし、何もかも自信がなくなってしまったのだ。

*

そっと建物に沿って庭に入った。死角になって中までは見えないはずだが、家の前の道を通り過ぎる人影が見えると郁生ではないかと咄嗟に身を隠した。

硝子戸越しに赤い絨毯を敷いた和室が見える。留守だと思いこんでいた家の中に、テレビの画面が光って見え、大きなアームチェアに座るお年寄りの男性の横顔が見えた。きっとこの家のご主人の大須賀さんだ。
これは立派な不法侵入だと判っている。通報されても仕方ない状況だ。

大須賀さんはテレビを消すと、ゆっくりとこちらを向き庭に面した大きな硝子戸に近づいた。気づかれたのだろうか。とにかく怪しいものではないと判ってもらうために ひきつりながら笑顔で会釈する。おどおどした私の様子はどう見ても不審だ。けれど 大須賀さんは天気を確認するように空の方を眺め表情も変えない。

「あらま、あなたがアヤちゃん……さん?」
後方から女性の声がした。吃驚して振り返るとエプロンをして両手にごみ袋を持った中年の女性だ。
「ずっとお会いしたことなかったものね、初めまして、ヘルパーの夏木です」その人は私の手を握り、立て続けに喋り続ける。
「大須賀さんはいつも、娘や孫のアヤが来るから心配ご無用。気にせず帰っていただいて大丈夫っておっしゃるの。奥様亡くされてからずっとお独りだけど、寂しいことはないって。安心よね、ご家族の見守りがあって」
返事を差し挟む間も与えず、ヘルパーのナツキさんはしゃべり続け、ひとしきり喋り終えるとごみの袋を持って表に向かって出て行った。どうやら出入口は表だけのようだ。
外を窺う。今、郁生と顔を合わせてもうまく自分のことを話す自信がなかった。

ひらりと雪の欠片が手の甲に舞い降りる。寒さを急に意識した。胸がきゅっと締め付けられる。
郁生が好きなのは本当の私じゃなく、私が一生懸命「作ってきた」自分なのだと、今さらどう言ったら解ってもらえるだろう。郁生は母とどんな言葉を交わしたのだろう、母は私のことをどんな風に言ったのだろう。考えている内に 胸がどんどん苦しくなってきた。呼吸のしかたが解らない。しゃがみ込んで立ち上がることもできず、縁側に手を掛ける。
──助けて。助けて下さい。

硝子戸越しに見える大須賀さんはさっきと同じようにまた、ヘッドホンをつけてTV画面を見ていた、耳を澄ますとヘッドホンから漏れる音声。相当耳が悪いのだろう、ボリュームはきっと最大だ。硝子戸に手を掛けたらわずかだけれど開いた。気を失いそうになる中、かすむ目に サイドボードに置かれた初老の女性の優しく微笑む写真が映る。あれは「せんぱい」。

*

ぼんやりとした目に天井の照明が映る。気づくと 部屋の中に居る。布団の上、毛布を掛けてもらっていることが解る。すぐそこに居るみたいなのに、ごそごそ動いても大須賀さんは簡単には気づかない。自分の身体が動けること確かめ、ゆっくりと起き上がる。
「あの…」
反応が無い。思い切ってもう少し大きな声を出して呼びかけてみる。
「あの…」
もう一度 お腹に力を入れて声をかける。
「すみません…勝手にお邪魔して…私」

やっぱり聞こえないのだ、と思ったその時、大須賀さんはやっとこちらを向いた。いつの間にかヘッドホンを外している。
「そんなやかましい声を出さんでも聞こえる」
言葉のわりにこちらを向いた表情は柔らかかった。
「す、すみません」
恐縮する私に大須賀さんは 今度ははっきりとこちらを見据えて続けた。
「聞こえる音と聞こえない音があってね、補聴器も色々使ってみたんだが、どうも好きになれなくて。まあ、日々顔を合わせるのはあのおせっかいなヘルパーだけだし、あの人のお喋りなら別に聞こえなくても問題ない」

「日々、顔を合わせるのはヘルパーさんだけ」というところに引っ掛かる。奥さんの写真の後ろに 奥さんと娘さんとお孫さんらしき三人の写った写真があった。かなり以前の写真のようだ。
「それぞれの人生ってものがある。そんなに私にばかり構っているわけにもいかんだろう」
「でも、お二人ともよく来ていらっしゃるって…」
「ああ、アレも方便というものでね。お喋りでおせっかいなヘルパーをさっさと家に帰らすための」
大須賀さんはそう言って少し照れくさそうに笑った。

「ところで あんただが」
「はい。勝手に入って来て申し訳ありません。おまけに こんな……」
布団と毛布に目をやり謝ると大須賀さんは何てことはない、という様に手を振り
「どうせあの慌て者が孫と勘違いでもしたんだろう。わざわざ戻って来てあんたの倒れてるのを見つけて。まあ その様子じゃ救急車は呼ばなくても良かったようだな」
最初から気づいていたのかも知れない、ヘルパーさんとのやり取りも大方解っているようだ。
「すみません、すぐ帰ります。私の実家、近くで……小学生の頃からここが『110番の家』だって、ずっと……」
「ということは あんたは助けが必要な『こども』ってわけかな。近ごろ独居老人を狙った不審者も多いと聞くが」
こんな怪しい私を見る大須賀さんの目が、穏やかに笑っていることだけが救いだった。

*

「危ない目に会って駆け込んで来る子を助けたい、安心させたい、というのが妻の望みだった」
奥さんの写真を振り返りながら 大須賀さんは言う。
「だから、あんたがそれを求めて来たんなら、追い返すわけにもいくまい。もう『こども』でなくてもね」
写真の「せんぱい」は少し恥ずかしそうに微笑んでいる。そんな彼女を見つめながら、大須賀さんは呟くように言った。
「臆病で人見知りのくせに、こんなボランティアを引き受けて……駆け込む子供も特別な事件もなかったからいいものの」
「私、奥さんが交流授業で教室に来られた時のこと、覚えています」
うん、そんなこともやってたなぁ、と大須賀さんは笑いながら頷き
「本当はほっとしていたんだろうな。きっとこどもが本当に駆け込んできたらあいつが一番慌てて緊張して、倒れそうになるのは目に見えていたんだ」

大須賀さんはゆっくりと窓の方に向かい、庭を見ていた。私も同じように外を見る。雪は本降りになり うっすら積もり始めていた。少しの沈黙の後、大須賀さんは向うを向いたまま言った。
「ただ、何もしてやれんかった、と最期まで気にかけていた子がおったな。もうずっと昔の話だがね。学校の行き帰り玄関先でじっとこちらを見て、声を掛けようとしたら逃げてしまう女の子だった。何か助けが必要な子なのではないかと妻はいつも心配していた」

悩んで悩んで、奥さんは大須賀さんに相談してきた。その子の家を調べて親に会いに行ったが 心配されるようなことは何もない、もちろん虐待なんてとんでもない、と言い切られ、却ってあの子に悪いことをしたのではないか、と奥さんはまた悩んだそうだ。
──ああ、わたしは その子のことをよくしっている。
「私、その子のこと 知っている…かも、しれません」
私はそう言って、『その子』のことを思い出すまま話し始めた。黙って聞いてくれる大須賀さんの前では、不思議と素直に自分の心の中を見つめることができた。
──確かに「虐待」されているわけじゃなかった。でも家族の中でひとり出来の悪かった「その子」に親は何かと厳しかった。褒めて欲しくて、優しくしてほしくて頑張っても空回りばかりした。ふざけて笑わせようとしてもため息をつかれ、部屋に行って勉強するように促された。だんだん愛情の示し方も解らなくなって、笑顔を向けることも出来なくなって、お互いにぎくしゃくしてしまったのだ。こんなになる前に ただ「好き」と伝えることができたら良かったのかもしれない。

「その子はどんな大人になっただろうと、ちゃんと幸せになっていて欲しいと、あいつはずっと言っていたんだ」
大須賀さんは そう言って私の顔をじっと見つめた。

ここに居るのが解ったのだろうか、郁生が門のところから覗き込んでいる様子が見えた。硝子戸越しに様子を窺い、大須賀さんが小声で言う。
「追って来たのはあの男か?会って話すか?いないと追い返してやってもいいが」
緊張で顔が強張る。今の私なら素直に話せるかもしれない。ちゃんと解ってもらえるかどうかは別だけれど。
「逃げて解決になるなら、好きなだけここに隠れていてもいいが……」
大須賀さんはそういって 私の目を覗き込むように見つめた。心の奥まで覗き込まれているみたいだ。
──私が逃げて来たのは……と考える。
私が逃げて来たのは、本当は彼からじゃなく自分自身からなのかもしれない。親に否定されたと思い、ずっと愛してやることのできなかった自分自身。俯きがちな気持ちを解ってもらう努力すら放棄した自分自身。

「庭に雪が積もって全てが真っ白になると、この家が白い静かな海の上に停まった舟みたいに思える、と妻はよく言っていた」
縁側に沿って横に広がる硝子戸の向こうに すっかり雪をかぶった植木や庭石が見える。
「自ら助けに行く舟じゃなく 助けて欲しい相手を待っているだけの舟だがね」
大須賀さんは庭を見つめたまま 私の答えを待たずに 続けた。
「声を出せば助けてくれる人もいる、受け容れてくれる人もいる。ずっと見守っている人もいる。あんたは一人ではない。安心しなさい」

写真立ての「せんぱい」は そんな風に言う大須賀さんの横顔を、静かに微笑みながら見守っている。

     了

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