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■#1 聴覚障害と診断された日のこと

難聴と診断されたのは、ほぼ40年前の4歳の時。

私の場合は1歳の高熱が原因で聞こえなくなったと言われています。

聴覚障害児にとっては早期発見、早期教育が鍵となる…
言語を獲得する大事な時期、すなわち幼児期に音が聴こえてないと、語彙力が増えません。早めに診断されていれば、言葉を覚える勉強を始める=言語訓練を受けることができるのです。

私が4年近くも難聴と分からなかったのは、医師に見せても、「この子は聴こえている」と判断されるほど、活発で勘のよさがあったからです。
3歳児検診で保健師さんに相談しても「利発そうだから、そのうちしゃべるようになります、大丈夫ですよ」と言われてしまう。いくつかの病院をまわっても「気のせいでしょう、様子見で。またなにかあったら来てください」と微笑まれてしまう。

最終判断、「聴力検査で測定してみる」というところに、たどりつくまでに、相当の遠回りをしていました。聴力検査を受けたのは幼稚園に入園して2か月経ってからでした。

私の両親は気にしていました。娘が3歳までにしゃべれていた言葉、そこからまったく発展しない、言葉の数が増えないことを。

幼稚園に入園する直前、娘の顔がむくんできて瞼まで腫れてきていると、母はそれはなぜだろうと思っていました。

この時期の私の記憶のひとつに、目の前の風景がゆがんでいたことがあります。

眩暈。
歩いていると、突然ぐにゃっと景色が曲がっていました。ムンクの叫びの世界。暖かいコートを着ていた自分を覚えているから、おそらく入園する前の冬。だんだんに聴力低下していったのでしょう。
(それでもお転婆だった私はブランコで誰よりも早く漕いでいました、よくブランコから落ちなかった…この活発さが難聴の発見を遅らせたのかもしれないですね)
眩暈が私に起きていること、身体のだるさを、親に伝える手段や言葉を持っていなかった。
具合が悪いと言う自覚もなかったし、体がしんどい状態があたりまえになっていたのかもしれない。

私についた障害名は「両耳感音性難聴」です。
音を認識する部分である内耳が機能していない。乳児の身体で丸1週間の高熱と闘ったものの、内耳にウィルスが入り、聴覚神経が死んでしまった。

脳に音を伝達させる神経が、動かない。 

1歳半頃の私は、1ヶ月で4種類のウイルス性感染症にかかりました。
予防接種を受けようと思っていた矢先に、水痘、麻疹などに一気に罹患。それはなかなか珍しいことで、免疫力が低下していたとしか言いようがありません。

一般的に麻疹と風疹は聴覚障害(心臓障害も)が残りやすいと言われています。
当時は予防接種するより、実際にかかってしまったほうが良い、一生の免疫がついてよいよね、という風潮が強かった時代でした。
後遺症が残るとは想像もしていなかったのは、私の家族だけではないでしょう。

普通小学校に入学させたいなら「5000語、言語を獲得しないと無理です」と、私の両親は耳鼻科医師や専門家に説明されていました。
冷たい言葉に聞こえるかもしれないけれど、父は、ある分野の専門職についていて、その5000語は 、
「なずなが小学校で負担のない生活するために、必要な言葉の数なのだ」と受け止めたのです。
娘が社会的に融合するために一刻も早く、言語訓練をしなければならない、と父は動き出していました。


「私が聴こえないと分かった日って、もしかして、雨が降っていた?」と、
20年後、私は母に聞きました。 
驚いて「その通りだけれど…なんで?」

病院の帰り道、車の中で。
後部座席の母の膝で(チャイルドシートはない時代だった)検査疲れで寝ていた私が一瞬だけ目を覚まして。  

その時に見えた母の涙。
フロントガラスに叩きつけられた強い雨。ワイパーが激しく動いている。
それを私は静かにインプットしていたのです。

母が泣いていたのを知っていた、とは、今も言えません。

この日まで無声、無音が私のあたりまえでした。まさにサイレント・ワールド、です。

次の話は補聴器をつけ、やっと音が入り始めた頃のことを記載したいと思います。

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