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灰羽連盟考察 ~死を奪われた天使たち~ 「03:罪について」


罪と聞いて何を思い浮べますか

罪と聞いて、対となる罰をまず思い浮べる人は多いのではないだろうか。私たちが暮らす世界では罪とは一般に犯罪のことである。犯罪を行なったものには、刑罰が与えられる。法制度においては、社会規範に反するものが罪として規定される。
では法制度が存在しなければ罪を犯すことは有り得ないのだろうか?

あなたの罪を思い浮べなさい、と言われれば「自分がしたこと」を思い浮べるだろう。「自分がしたこと」は「自分がしたこと」であり罪そのものではない。
行為そのものが罪なのだとすれば、同じ行為でも状況や人によっては、同一の行為を罪に思わなかったりするのは何故だろうか?

罪とはそもそもなんだろうか?

ここまで来ると、「罪とはそもそもなんだろうか」という疑問が湧いてくる。端的な定義を述べるならば、罪とは、人が持つ観念である。

人間が自己の存在の場の秩序やその緊張関係を破ること。法や道徳に対する違反行為も罪と呼ばれるが,罪とは本来的に宗教的観念であり,たとえば孔子,ソクラテスあるいはモーセの教えも単なる人間生存の規範ではなく,常に天や神との緊張関係において成立している。このような罪の観念はすべての宗教にみられ (タブーや穢れの概念はその原始形態) ,またその贖罪もすべての宗教にみられる。特にキリスト教において深い罪の意識がみられる。人祖アダムが神にそむいたという罪 (→原罪 ) は,その子孫たる人間の生得的な罪とされ,その救済は神の恩恵によってのみ可能とされる(ブリタニカ)

ブリタニカを引用してみたが、つまるところ罪とは観念であり、イデアであるため、現実世界には存在しないし、取り出すこともできない。罪とは私が感じるものなのである。

罪は私の中にある

罪について考える私の意識の中にしか、罪は存在しないのである。
では、私の意識の中に存在するかどうか、私の意識はわかるのだろうか?
答えは明白である。私が罪について考えれば、罪は存在するし、わたしが考えなければ、罪は存在しないのである。

つまり「罪はあるか」と聞かれれば、あると感じればあるし、ないと思えばないのである。
罪の意識こそが、罪を存在させる原因といえるだろう。

話師の問い

では灰羽連盟の話をしよう。
話師はレキにこう問いかける

罪を知る者に罪は無い。では汝に問う、汝は罪びとなりや。
(罪を知っているものに罪はない、お前は罪人か?)

この問いに答えようとすると、
罪人です→罪を知っている→罪はない→罪人ではない
罪人ではありません→罪を知らない→罪人である
となり、どう答えても、矛盾してしまう。いわゆるパラドックスである。

「私は罪人だろうか」という問いそのものが、話師の問いのようにパラドキシカルなものであるということが、この場面で表現されていることなのではないか?と考えた

罪を知るものに罪はない。
これは罪の輪という謎かけだ。考えてみなさい。

罪を知るものに罪はない。では汝に問う。汝は罪人なりや?
 わたしは繭の夢がもし本当なら、やはり罪人だと思います。

ではお前は罪を知るものか?
 だとしたらわたしの罪は消えるのですか?

ならば、もう一度問う。罪を知るものに罪はない。汝は罪人なりや?
 罪がないと思ったら今度は罪人になってしまう。

おそらく、それが罪に憑かれるということなのであろう。
罪のありかを求めて同じ輪のなかを回り続け、いつか出口を見失なう。
 どう答えればいいんですか?

考えなさい。
答は自分で見つけなければならない。

罪を知るものに罪はある。罪を知らないものに罪は無い。
もしも、自分が罪を感じるならば、その限り、それを自分で払拭することはおよそ不可能である。
考え続ける限り、そこにある。
ゾウのことを考えるな、と言われてゾウを思い浮べるのと同じである。

自分でぬぐえない罪悪感に囚われて、救われない。そんな状態が罪憑きとして描かれたものの本質だといえよう。

レキが救われるために

ここまで述べればもう当然おわかりだとは思うが、罪と、他者の存在は実は関係がない。罪悪感を感じるかどうかは選べないからだ。自分にとって罪であるかどうかは、罪悪感を感じるか感じないかで決まると言ってもよいだろう。

答えは自分で見つけなければならない

これはつまり、誰かに見つけてもらった答えでは役に立たないということだ。自分に罪の意識がある限り、他者に「あなたに罪はない」と言われたところで、おいそれと罪悪感が消えるなどということはない。自分で納得しなければ、答えは自分のものにならない。自分で自分を赦し、自分で罪の本質に気づかなければ、罪に囚われることになる。話師の話は回りくどいが、有効な手段なのかもしれない。

レキが罪憑きから解放されたのは、ラッカという救世主が現れたからではなく、その助けを借りて、自己を赦すことができたからだと考える。レキが助けを求めなければ、ラッカは助けることができない。夜闇の中、遠くから轟音と共に迫ってくる列車の悪夢は、レキを押し潰そうとする罪のメタファーだ。確実に轢かれることが分かっていても、そして逃げ道があっても、ただ立ち尽くし、終わりが訪れるのを待つしかない。それが罪悪感そのものなのだ。

罪なき罪悪感について

灰羽連盟から考察したことを書き連ねてきたが、作中で描かれる罪に関しては作者が、灰羽連盟 Blu-ray BOXの付録で語られている文章を読むことが一番の近道だろう。

ただ、僕は自分の目の前で起きた、いくつかの理不尽な死に対して、ずっと意味や救いを探していたし、その事が灰羽を生み出す一つの要因になったのだとは言えるのかも知れない。当時の僕は、得体の知れない罪悪感に背中を押されるようにして生きていた。それは影のようにどこまでも離れる事なく僕について回った。僕が抱えていた罪悪感の正体を説明するのは難しい。そこにはただ罪の意識だけがあり、償うべき対象が存在しなかった。それは僕がただ一言、自身に向けて『赦す』と言えば消えてしまうような、亡霊の如きものに過ぎなかった。でも僕にはそれができず、影を引きずり、独りでいつまでも同じ場所をぐるぐると回り続けた。 ――”灰羽日記外伝 さよならオールドホーム”より、一部引用

まさに罪憑きであり、罪の輪そのものだ。

”罪憑き”。黒く染まり、浄化と共に美しい灰色へと変わる羽根。夜の線路、迫ってくる列車。灰羽連盟で視覚的に描き出されるメタファーは、言葉で語るよりももっと多くのことを語りかけてくる。

”罪憑き”。黒く染まり、浄化と共に美しい灰色へと変わる羽根。夜の線路、迫ってくる列車。灰羽連盟で視覚的に描き出されるメタファーは、言葉で語るよりも多くのことを語りかけてくる。
罪という観念。罪悪感。浄化。わたしたちは作品の中にそれが描き出されているのを見ることが出来る。これが灰羽連盟が放送されてからずっと長くに渡り、ファンの心を掴んで離さない魅力なのだと私は思う。

以上で考察は終わりである。

ところで、動物も罪悪感を感じるのだろうか?一部の賢いイヌはあたかも罪の意識に苛まれているかのような表情を見せる。彼らにも、「罪の意識」はあるのだろうか・・・


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