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今週の日記にならないことばたち


✰「人」として好きだと言うけど 果たして 私たちはどこまでの範囲を「人」として設定しているのだろうか
ヴァージニア・ウルフを読んだことがない
論考などで言葉が引用されていて、こういう場面での言葉なのかな?と思うことがよくある

というのも「女/男」としてすきってことばを時々すり抜けるためにわたしは 「人」としてすきを使うときがある
両者は同じ「人間」をさしてたとしても全く異なる意味合いに変わってしまう よって言葉を交わしているわたしとあなたで伝えたいニュアンスも違うし 「人」の定義ってそもそも自分の会ったことのある人しか定義してないのでは。

✰過去の自分が未来の自分の見た目を評価できないその逆はできるのに

✰マッキーでA4の封筒の宛名におじいちゃんの名前の字に入っていた漢字を書いた。不意に祖父との子供の頃の何気ないエピソードが脳内再生される。

✰怒りを現すことに慣れずに生きてしまった
文化の影響も大いにあって いじられることに「キャラ」としていかにやり過ごしそれを活かすかばかり これが面白いこととして刷り込ませてしまった幼いじぶんへ 心が痛い

✰街にて
みんなは手を繋いで歩いていたり ひろく浸透している既存の固定概念になりたかった/なろうとしてた瞬間って自分にあったのだろうか と途端に眠くなって目を閉じたら 高校生の頃の教室の席から休み時間っぽい景色が一瞬目に浮かんだ
グランド側の窓から2列目の後ろの方の席。
いつの記憶だろうか。


井の頭線ってホームから見る風景ぜんぶ似てるから 井の頭沿線を半袖の季節に乗ると思い出してしまう人がいてくるしくなる。
たぶんどの時系列にいても同じ状況になる度に思い出すと思う。
なんであの時昼から夕方にかけて沿線を歩いたのかと思い出そうとするけど、わたしたちにとってもう必要がない 思い出さなくていいことだと 自分の記憶にストップさせる。

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