見出し画像

『だって…』

 僕の描く数かずのフィクション作内には「死」がある。
 必ずと言っていいほど、死者がいる。では、死が話の題材、もしくは中核なのか――。これもまた違う。

「死とは何か」。それを問いかけるよう、意図したことはあるような、ないような…

 ここはハッキリしない。

 そう、ハッキリしない程度に意識しているだけなのかも。死と表裏にある「生」を題材に話を展開しているわけでもない。

 なんだか混乱してきた。

 ――「生死」を主題としていないのに、ナラティヴに死者がいる。

 逆説的ではないだろうか?

 活字に起こそうと意図していないテーマが出てくるのは、自分でも気味が悪い(とはいえ書くのを即座にやめることはないと思うが)。できるだけ明るめな話を書こうとしても、ついつい死が顔を出してしまう。

 なんなんだ、一体、もう!

 許されるのなら、スネたくなる思いだ、ったくもう。

 書いたものはできるだけ、身近な人に読んでもらうようにしている。相手からしたらいい迷惑だろうが…

 言われるのが「過激だね」。ん〜、そこも意識していない。ラディカルに書こうと決めて、出発したこともない気がする。

 どちらかといえば「あ、気がついたら!」というケースが大体かと。やはり、話のなかに死者が出ると、怖い!危ない!といった印象を抱かれてしまうのか…

 では実際のところ、僕という人は、死を気にかけないのか、死に無頓着か?と訊かれると、真っ先に「違う!」と応える。

 感嘆符をつけるほど、違うのだ。

 生きて三十余年。

 その間に他界した友人や親族は、同世代のなかでも多いほうだと思っている。
 一世代上の人たちより多いのかもしれない。

 それだけ死をみてきた。だからなのか、死には敏感だ。――つい先日、お世話になった先生が死去された。ここ数日は、気が落ち込んでもいた。

 また、友人が死亡したさいも、ものすごく悲しんだ。確か、葬儀中に号泣し、相手方のご親族が心配されるくらい、涙を流した記憶がある。

 命日が近づくと「そういえば」と思い返す。

 これだけ感度が高いと分かってもらえたらうれしい。

 付け加えると、大学時代にもフィクション作を書いていた。ナマイキにも英語で。在学中はつねにペーパーバックを読みあさっていたからなのか、英語で書くほうが肌に合っていた。

 その時期も、だ!死がでてくる。
 なんなんだい、もう。

 ハッと気がついた――。
 僕の作品には「死に急いでいる」ような人物が登場する。それは主人公であったり、重要人物であったり。

 そこだ!

 寿命が縮まりそうな人物が、ストーリーの鍵を握っている。踏み込んで言うと、つねに死と隣り合わせなのかもしれない。スリルは追求していないのだが。

 単純に冒険や極限な人やものが好きなのかもしれない。そうなると自然に死者は出てくる(ように僕の中ではなっている)。

 乱雑に結ぶ。

 多分、無理難題だったり、究極だったりする話の筋が好きなのだ。

 発見。

 想像空間は意識していない内容が表面化するのだ。
自分で言うのも恥ずかしいが、驚きもある。

 だからこそ、書くのは楽しい。大変だし、体力のゲージはものすごく減るが、楽しい。

 気分転換のエッセイを書いていたら、しこりが取れた気がする。

 あ〜、スッキリした〜元気も出たぞ。

 まだまだ書けそうだ。
 題材は身近なところにあるのだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?