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200508

文章を外側に向けて書くことのハードルが急に高くなったように感じて、noteも書いては消しを繰り返していた。

実際ハードルが高いと感じたのは思い込みで、公開できなかったものは結局、わたしの承認欲求だったりを満たすのが目的で、被害者意識にどっぷり浸かってるやつばかりだったんだなと思う。

読んでもらっていいねもらえたら満足。

みたいな。そういうの。

そういう気持ちを否定したいわけじゃないんだけど、(過去のわたしを否定することになっちゃう)

でも、それとちがうものがいいなぁと思っているところ。

ほんとうはわたしがわたしにいいね!できていれば誰かに求めなくてもいいものなのよね。

頭での理解と、こころの納得はひとつの身体のちがうところにある。同時に起こらない。

そのギャップが、とてもふしぎだ。


わたしはよく、説明や順序をかっとばしてぱっと"わかる“ことがある。

わかる?言葉を話す前にわかるあれ。

そのおかげかせいなのか、わたしにはうっかり相手の話のオチを喋ってしまったり、途中で内容がわかってしまって話を最後まで聞かずに質問の答えを言ったりするちょっとヤな奴な部分がある。


いま、祖母のお世話をするようになって、それがとても役に立っている。ぱっとわかる、あれ。

相手が言うより先に体が動く。

言葉や記憶がほんとうはあるのにないものになっている祖母が相手の言葉より目に見えない部分に反応していることが、"わかる"。

これはわたしの感覚で、じっさいズレていないかは祖母にしかわからないんだけど、

わたしたちはたぶんわかりあえている。

と、わたしは感じている。


昨日祖母がおやつのどら焼きをわけてくれた。


おわり





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