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人生の最終目標

今年の初詣は妹の合格祈願と内定祈願で、御神籤を引いた。

結果は小吉。飽きなければよい。焦ってはいけない。健康はいまいち。恋愛はダメ。もうすぐ上半期が終わろうとしている。現状とっても当てはまっていた。飽きてしまって手がつかなくなったのは、数えきれないほど。健康は、今年になって持病が増えた。イネ科の花粉症による口腔アレルギー、腰痛かと思っていたら、椎間板ヘルニア。恋愛も。彼氏に別れを告げられた。

運が悪かった。厄年じゃないのか。いろいろ考えた。

でもどうなんだろう。御神籤を私の未来を予告してくれているものならば、それを信じて対策はできたはず。要所要所で選択肢があったはず。そのような結果になる選択肢を選んだのは私。運の良し悪しではなく、この道をたどるように決められている運命だったのではないか。そんな気がしている。

ただただ、すべてにおいて、「私はこんなもんじゃない。もっとうまくやれるはず。」そのことばかり、頭をよぎった。元カレと別れた時なんか、まさしくそう。

先の見えないものへの恐怖や不安、自身を高望みする気持ち、そうはなれない矛盾への怒り、この世いは正解がないからこそ路頭に迷っている。

でも、人生の道のりはわからなくなった。いわゆるキャリアプラン。色んな大人に聞いても、こうなる予定ではなかった。気づいたらこうなってた。人生そんなもんなのかもしれない。

だから、人生の最終目標だけ決めた。

私がその生涯を終えた時、自分の孫が私の歴史を知って「なんやこのパワフルな祖母ちゃん。僕/私の知ってる祖母ちゃんはおとなしくて庭をいじるか編み物をしてゆっくりしてる寡黙な人だったのに。」そう思ってもらうこと。

実際に私の亡くなった祖父たちへ抱いた感情。

父方の祖父は、私が会いに行くと必ず、自分の小屋でひたすら釣りの浮きと仕掛けを作っていた。「おじいちゃん!」と声をかけ走っていくと、笑顔で迎えてくれる。そんな祖父は私が8つの時に肺がんで亡くなった。特に大きな祖父との思い出はない。祖父が亡くなってから、知らなかった事実をいろいろと聞かされた。大正15年生まれの祖父は、志願兵だったこと、広島の海軍学校をでて満州に行っていたこと、帰国後祖母と結婚するとき別の女と駆け落ちをしようとしていたこと、その女の間に隠し子がいたこと、鉄工所を営んでいた祖父は赤く光る鉄をも素手で触っていたこと、近所では怒らせてはいけないと言われるくらいけんかっ早っかったこと。ひたすらに浮きを作ってにこにこしていた祖父からは想像もつかない姿。彼がなくなって10年以上たつが、今になって無性にあってみたいと思う。一緒にお酒を交わせば、どんな面白くてかっこいい武勇伝が聞けたのか。どんな人だったのか、私には知る由もない。

母方の祖父もそうだ。昔から可愛がってもらった。お泊りをするときは、朝早く起きて、一緒に近くの公園まで散歩に出かける。その帰りに必ず、祖父の行きつけの喫茶店へ入り、ミックスジュースとサンドイッチを食べる。祖父は必ずブラックのコーヒー。ジーンズに黒ぶちメガネ、オールバックの髪にキャップをかぶり、何ともアメリカンな容姿。とくにしゃべることもなく、寡黙な祖父だが、かっこよかった。日曜の夕方になると、笑点をみる。子どもながらに好んで見ていた。完全に祖父の影響だ。そして、シーズンになると一緒に阪神の試合中継をみる。子どもなので、野球のルールは知らない。言われてもわからない。でも、祖父が楽しそうにしているとなりにいるのが楽しかった。そんな祖父も、私が14の時、亡くなった。知らせは部活中に先生から告げられた。すぐに帰りたかった。「お母さんから、部活を終わらせてから帰りなさいって連絡があったから、整理がつかないだろうけど、このまま練習しててね」という先生。そうかもしれないが、いてもたってもいられず、練習はそのまま休んで、コートの端に座って考えていた。そんな祖父の原因も肺がん。真のヘビースモーカーだ。医者にとめられても、たばこを買いに行くところを近所の人に祖母へ通報されようとも、タバコはやめなかった。とにかく子供好きで、私達孫だけでなく、近所の子にまで、「おじいちゃん!」と親しまれていた。その祖父もまた、苦労人だった。出身は福岡、はるばる関西へ単身でわたり職に就いた。出稼ぎのために。そして祖母と結婚した。15,6でこちらへ来たそうだ。行動力のある人間だけど、そのそぶりが子供の頃は見れなかった。

もう会えないけど、会えないからこそ、口伝えの武勇伝を鵜呑みにして、彼らのことを偉大に思えるし、そんな人の血があることを誇りに思う。私もそんな祖父たちのような存在になってみたい。

私の人生も破天荒ながら、それを運命として受け入れ、私が祖父らにあこがれを抱いたように、自分の孫にもあこがれられるような存在になりたい。それまであと何年かかることやら。