ツッコミは緩和ではない、緊張の一種である



ボケが緊張でツッコミが緩和。
この認識は間違っているのではないか、というのが前回。


へんなことが起こると緊張が起こり、それが笑いになる。ボケがあると笑いが起こる。それではツッコミは何をしているのか。

仮説をたてたい。


チャド・マレーン(オーストラリア人で日本で漫才コンビ、チャド・マレーンを組んで活躍)は著書「世にも奇妙な日本のお笑い」で以下の趣旨のことを述べている。

日本のお笑いが海外より優れている点は、声を出して笑えること。それを可能にしているのはツッコミである。

ちなみにこの本は世界と日本の笑いに詳しい著者しか書けない、世界の笑い事情のことを書いた名著である。しかも単純な日本びいきでもなく、平等に世界の笑いと日本の笑いを比較している。

本題に戻る。
外国人漫才師が誉めてくれている、日本の笑いの特長、ツッコミのメカニズムはどういうものか。



大緩和が根底にあれば、緊張が起こったときに人は笑う、ここまでが「緊張の緩和理論」。
これをもとに考える。



ツッコミの効力は、「補助の緊張」を加えることである。

「大緩和を前提としたときに、緊張を感じたときに人は笑う」を真であるとすると、「ツッコミで笑いが起きている」ということは、「ツッコミは緊張のひとつである」と考えられるのではないだろうか。


ツッコミは、事象が一致していることによる「合わせ」の緊張と言えるのではないか。
漫才のツッコミ役と同じ文化、習慣を背景としていて、ツッコミ役の言うことに納得できたとき、「納得する」つまり「自分の考えとツッコミの考えが一致する」という「事象の一致」を体験できる。

しかし、人の考えは多種多様。ツッコミ役の言うことに納得する、というのは、人が多くなればなるほど難しい。合わせの中でも「ダジャレ」とかは、納得感が強い。音が合う、というのは普遍の真理である。その次が「あるあるネタ」か。これは自分の体験との一致。しかし、ツッコミは納得感を得るのが難しい。

そこで取られている手法が「発散的発声」だと考える。
ツッコミの発声は往々にして発散的である。
日常においてこの発声のしかたは特殊である。
今は漫才のスタイルが世間に浸透しているため、「ツッコミ」の発声をあえてすることもあるが、もともとは非日常的である。
人はそんなに断定的な物言いを普段はしない。
枝雀の笑いの分類のうち、「生理的な笑い」とされるものを引き起こしていると考えられる。本能に近い部分であるので、人によって差異がより少ないはずである。

つまり、曖昧な納得感による合わせの緊張を、生理的な緊張で包んで提供しているわけである。
しかし生理的な緊張だけでは、人は経験から、「幼稚」と捉えてしまう。合わせ技がいいのだ。
簡単に言うと勢いで誤魔化され、「合わせの緊張を感じている」と錯覚させられているということである。

合わせの緊張の何がよいか。
人によって差異が少ない、ということである。
みんなが、おおよそ同じ方向のおかしみを感じられることである。

なぜ人によって差異が少ないか。
緊張で笑うには大緩和が必要であるが、合わせの緊張に関しては、それが少なくて済む。
事象の一致は、普通ではないことではあるが、恐怖や不安を感じることはないからだ。
また、普通の状態との距離が無限に広げられる「へん」なことに対して、「合わせ」がとる距離は大きくない。


加えてツッコミを効果的にしているのが、人が踏み出すのを確認して踏み出す、共感性の高い日本人の民族性。

大勢を笑わせる必要がなければ、ツッコミなどいらない。聞いている人が個々に自分なりのおかしみを感じればいいだけである。

しかし大勢を笑わせるには、とにかく「合わせ」の緊張が必要である。それが無理そうなら「発散的発声」で勢いで誤魔化す。

そうすれば、特に日本人は、「これは皆が笑う笑いだ」と感じ、声を出して笑う。

ツッコミは、直前のボケの補足をしながら、声を出しやすい合わせの緊張を生み出し、笑いをとる役割を担う。

逆に言うと、ボケは、ツッコミの合わせの緊張の納得感を大きくするために、より離れたことを言う役割を担っている。

前フリ要らずのダジャレやあるあるネタと違い、まずはよりへんなことが起こらないと一致の緊張が起こらない、そういう特殊な「合わせ」の緊張、もしくは「合わせもどき」の緊張、それがツッコミではないだろうか。

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