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情念

目の前で少し頬を赤らめて、箸を割ろうとしている男がいる。
酔いが回ったせいか、目にいつものような力はない。
半日、ホテルにこもって、2人で抱きあっては離れ、離れては抱きあってを繰り返したので、体力ももう底を尽きている。心なしかほおがこけたように見え、前髪はホテルを出る時に整えた筈なのに、それでもやっぱり少し乱れていた。

いただきます

声にならない声で言い、手をあわせる。こういう端々に育ちの良さが見えるところも好き。
目を細め、息を吹きかけて冷ます仕草を見ながら、心の奥が締めつけられるように痛くなり、こういう感情が「愛おしい」なんだろうと思った。

お昼から合流して、今日は夜まで一緒にいられた。駅の改札付近で合流して、ビールや缶チューハイ、スナック菓子を買ってホテルへ入る。エレベーターで部屋に向かうまでの間の時間すら惜しむようにして唇を重ねる。あ、キス、と心が跳ねるのとほぼ同時に荒々しく噛まれる。痛っ

ここから先は転げ落ちるようにして時間が過ぎる。
部屋に入ると、扉が閉まるか閉まらないかのうちから抱きすくめられる。待って、荷物が、と言い終わる前に唇を塞がれる。会いたかった、ずっとこうしたかったと心の中で繰り返しながら、あとはもう自分の理性のスイッチを切る。したいがまま、身体の奥の奥の方から立ち上る欲望に身をまかせた。

じんわりと肌が汗ばむほどに求めて貪り、暑い、喉が渇いたと言ってアルコールを流しこむ。お互いに裸のまま、合間合間に話す内容は仕事の話だったり、最近感じたことだったりする。
23区内で生まれ育った彼が、地方出身のわたしをからかって、それにわたしが応戦したりする。毎度のパターンだ。戯れあうようにして口論する。いい加減になるとゲラゲラ笑いあって「あーサイコー」って目尻に浮かんだ涙を拭って、幸せだな、と思う。そのまま抱きついて、もう一度強く求める。彼が、全てわたしの中に溶けてしまえばいいのに。ずっとひとつになっていたい。

ホテルの部屋のベッドサイドにあるデジタルの時計は好きじゃない。否応にも残りの時間を意識させられるからだ。目にするたびに、この後の事を思ってしまう。あと2時間。あと1時間。あの数字が21時を過ぎたら、ここを出て、それぞれの家へと帰らなければならない。
終わりの時間が近づくにつれ、デジタルの数字が色濃くくっきり浮き出て見える気がする。

ラーメンを啜りながら、先程から何時まで一緒にいられる?と聞けずにいる。

「んーあと20分くらいかな」
「30分発の電車乗るつもり」

そんなふうにアッサリと、具体的な数字で言われそうな気がする。その度に、わたしの柔らかいところに傷がつき血が滲む気がする。ピンと綺麗な紙で指先を切ってしまう、あの時の感覚。
あ、そうなんだ、やっぱり帰るんだね。抱きあってる間にあんなに切なそうな表情で、愛してる、もっと早く出会いたかった、俺のものになってと繰り返した割に、それでもやっぱり家にはきちんと帰るんだ。それは至極真っ当で現実的な訳だけれども、極端で、大胆なわたしは、このままふたりで消えてしまいたいとすら思っていて、ひどく冷静な彼に対して苛立ちを覚える。

ラーメンを食べ終えた男が、少し酔いも覚めたのか急に真面目な顔をする。

「そろそろ行く?」

終わったな、と思う。夢から醒める瞬間。現実に引き戻される時。会って一緒に過ごせるのは本当に嬉しいけど、離れることの辛さを思うと、いっそこんなに辛いなら、会わない方がマシなんじゃないかと思う。
もうやめようかな。もう会わない。何度となく頭をよぎるのに、それでもやめられないのはなぜなのか。どうしたらここから抜け出せるのか。彼を求めてしまう、自分の中の「女」にほとほと手を焼いている。

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