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文章を書こうとおもった時。

昔、私が小学生のころ、頻繁に文集のようなものを書いていたのを唐突に思い出した。今のように、インターネットや、コピー機がない時代、文章を大量に配布するには、ガリ版が使われていた、ボールペンより少し太い、丸い円柱形の両端には、針がついてあり、それで、原板のロウのコーティングされたシートに文字を刻んでいく、下敷きは、細かいヤスリようになっているのでそのシートに小さい「傷」がつくわけである。書き終えると、そのシートをシルクスクリーンに取り付ける。下に藁半紙を敷いて、その上にスクリーン、その上にインクをローラーで擦り付けると、「傷」からインクが滲み出て、藁半紙に文字が「印刷」される。この作業を思い出しながら、文章を書いていると、インクと藁半紙の香りが蘇る。いかなる理由でその「文集」を作っていたかは全く思い出せない。

文章は、うまいほうではないが、書くのは、好きだった、友達に作文を代わりに書いていた記憶もよみがえる。

こういった文章を断片的に書いてみようと思ったのは、本日読んだ、宮本輝さんの「いのちの姿」というエッセイ集を読んだからだ、昔の、一見、たわいのない出来事を一つひとつ大切な宝石のように心に刻んで生きる気迫のようなものを私は、このエッセイを読んで感じたのだ。

文章を書いてみたいという欲求は、幼いころから私の心中にあったようだ。うまいからやるということではなく、ただ、文章を書きたいと・・・。世の中にいるコーチングやマーケティングを本業する人から言わせると、「それはなぜ?」と詰問されるのだが、その答えは無い。「なんとなく」ということにしておきたい。目的があることが重要である一つの「教え」である時は肯定するが、自分のことになるとそれを肯定して目的を無理やり決めると、その(あいまいな・・・・)目的に自分が拘束される息苦しさのようなものをひどく感じるのだ。だから、自分は目的など持たないほうが自由でいいのはないかと思うことが(最近特に)多くなってきた。

それが故に、私がいまここで書いている文章もまた、目的を持っている訳ではないである。「ただ、文章を書いてみたい」ただそれだけである。書くこと自体が目的であり、書くことで何か自分のなかで心が満たされる行くようなそんな・・・書くことによる「癒し」を自分は求めているのかもしれない。

極めて、自分勝手ではあるが、人に読んでもらうことを考えて書くことは一旦脇に置いて、好き勝手に書くことにする。句読点がどうとか、こうとかは批判されると、生真面目な自分の性格から放置できないのでどうしても修正し、「批判」されないように努めようとしてしまう。

批判と書いが、それは、私の文書を読んだ人が「ここはこういういいかたをした方がいいよ」と親切で投稿して下さったかもしれないのだが、私はこれを「批判」であると受け止める可能性があるのだ。一旦「批判」と思い込むとそれを修復することに努めると、何がなんだがわからなくなり、結局「書かない方がよかった」という極めて不毛な着地点にいたってしまうのだ。

せっかく数年ぶりに自分に文章を書きたいというモチベーションがよみがった。この気持ちがげんなりしないうちにいろいろ書いていこうと思う。


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