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「常識」ってなぁに?

常識とは社会に許容される失敗の許容値である。

常識についての勘違い

私達が普段なんとなく「常識」という言葉を使うとき、そこには「すべての人が知っている(はずの)前提知識」という意味合いで使われる。

とりあえずそれは嘘なので、そこから説き起こしていきたいと思う。

仮に存在する「常識」という変数が実際に全ての人が知っている知識や情報であった場合、それは人々に自覚されない。知っていて当たり前のことは人はわざわざ口にはしない。「常識」はそれ自体では人間には知覚されない。

人間が「常識」を知覚するのは非常識なものに遭遇したときのみだ。人間は非常識なものを目にしたとき、初めて非常識なものとの差異として「常識」を知覚する。つまり「常識」という言葉は「非常識」に対するレトロニムである。

人が非常識の存在によって「常識」を知覚したとき、そこには必ずその情報を知らない人が存在する。よって「常識=全ての人が知っている情報」という論理は成り立たない。常識が常識として認識されるということは、必ずそこに「それを知らない人」がいるのだ。つまり「全員が知っている情報ではない」。

常識とはなにか

では常識とは何であるか。

実は常識というのは行動の結果が成功した場合には知覚されない。ただ「良かったね」で終わるのだ。常識が人間の行動の結果にとって意味を持つのは常に失敗をしたときである。

常識は常に失敗とともに現れる

失敗をした時に常識的な手段をとった場合、それは「仕方がなかったこと」として許容される。許容された失敗はその社会の持つ資源の余剰プールの中から補填され、埋め戻される。

非常識な手段であった場合、それは自己責任として埋め戻されることなく処理される。

では非常識な手段で成功した場合はどうなるか。先程書いたように、常識は「問題にされない」。

「やっぱりね」「あの人は私達と違うから」「天才かも」といろいろな理由が後付され、それは「私達ではないもの」とされ、社会はなんの反応もしない。

つまり、常識とは社会の中で、失敗を許容する遊びとして機能している。

この遊びがないと基本的に人間は世界(自然環境)そのものと個人として対決しなければならず、人類お得意の「組織戦」が行えなくなる。ほとんどの人間は自然を直視することにも、直接に対峙することにも耐えられない。

フリーライダーの問題

とすると、世間的には「常識的」とされる行動様式でわざと失敗を繰り返せば、自分は世界に対しての正しい認識や予測をすることなく、他人の稼ぎ出した余剰リソースを延々と得ることができるのではないか。そう考える人が出るのは当然のことと言える。実際、そのような人はたくさん存在する。

さて、それをさらに進めて、このようなフリーライダーがたくさん集まって「何を常識的判断とみなして許容するか」に関して介入を始めたらどうだろうか?人間が世界(自然)に向き合った時にわざと失敗するだけでなく、何が常識的であるかを人間社会の中で宣言することに故意に失敗し続けるのだ。

するとそれが(充分に人数が集まっている場合)「常識的な判断=許容される失敗」として定義され、さらにフリーライドする余地が増える。

このループは実のところ人類社会では許容されている。今のところ。

何故なら、この行動は人類全体の行動の選択肢を増やすベクトルとして働くからだ。逆に言えば人類全体の選択の可能性を広げるメリットが、失敗によりリソースを減らすデメリットを上回る限り、このチートのループは許容される。

では、この許容の判定はどこで行われるのか。

私は大規模災害でその答え合わせがされると思う。

実際、私以外の社会を構成する人たちも、意識するとせざるとに関わらず、全体としてはそこにキャリブレーションの基準点を置いているように思える。

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